チョコレートを一緒に 〜それぞれのバレンタイン〜
ピンポンが鳴った。多分久保田さんだ。
母がインターホンで見て、パタパタと行く。
「走んなって」
「大丈夫〜」
玄関から、何か話しているのが聞こえる。
どうやら母が久保田さんに叱られているらしい。
「まったく、すぐ無理する……」
「大丈夫ですって。みんな心配し過ぎなんですよ」
そう言った直後に「あ」と固まった。
僕と久保田さんがギョッとして向くと、母は苦笑いする。
「大丈夫、大丈夫だけど、今ちょっと違和感がね〜ははは……」
僕と久保田さんは同時にため息をついた。
「もう動かないで、座っててよ」
「おとなしくしてなさい」
「……はーい……」
母はしゅんとして自分の座椅子に座った。
久保田さんは、ふうと息をついてこっちを向く。
「持ってく物ある?」
「あ、じゃあこれ」
お盆に載せた食器を渡す。
今日は鍋だから、運ぶ物は少ない。
「鍋か。寒いしちょうどいいね」
にこにこしてる。
久保田さんには好き嫌いはない。出せばなんでも食べてくれるけど、特に好きなのは、寒い時期の鍋料理。鍋は1人ではやらないし、温度のある食事がいいんだ、と言っていた。1人の時の食事は、熱くもなく冷たくもなくて味がしないんだそうだ。
「そういえば、母にケーキを届けてくれたんだって?ごめんね、わざわざ」
「買い物行くついでだったから、大したことないです」
「やたらテンション高いメッセージがきたよ。ありがとう。これでしばらく機嫌いいよ。父もね」
笑顔の久保田さんに、僕は頷く。
ケーキを届けに行った時、ちょうど検査の薬を届けに来た人がいて「お孫さんですか?」と話しかけられた。
どう返したらいいのかわからなかった。孫じゃないけど、いつかはそうなるかもしれないしそうならないかもしれないし。
困っていたら、真理ちゃんが「そうよ」とあっさり言った。「面倒だから、もうそういうことにしちゃいましょ」と後で言われた。
いつそうなるのか、ならないのか。
僕が中学校に入る時、そんな話があった。
名前が変わるのはどう思う?という風に、久保田さんから聞かれた。
ああきたか、と思った。
母と久保田さんが『お付き合い』を始めてから1年と何ヶ月かが経っていた。2人はうまくいってるみたいだし、僕も久保田さんとはいい感じになれている。その話は出てもおかしくないと思っていた。
保育園からの友達にも言われていた。「そろそろじゃない?」って。その友達は、赤ちゃんの時に親が離婚、母親と一緒に暮らして、小学校に入る時に再婚して苗字が変わっている。
最初だけちょっと違和感があったけど慣れるよ、と聞いていた。慣れたらなんとも思わない、とも。
思っていることをそのまま伝えた。
僕は、久保田さんのことをいい人だと思っている。一緒にいて楽しいし、僕が作ったご飯をおいしく食べてくれる。時々ゲームを一緒にしたり、買い物に出かけたり。僕が学校であったことで落ち込んだりした時は、何も言わずに近くにいてくれて、話したい時は聞いてくれる。側にいると安心する。
だから、一緒に住むことになってもいいし、母と結婚するなら反対なんかしない、むしろ賛成だ。
苗字が変わるのは、どうなるのかよくわからないけど、友達には名前で呼ばれることが多いから、それが嫌だとは特に思わない。
久保田さんは頷いた。
その時、そこに母はいなかった。
多分その後、久保田さんは母と話したんだと思う。
その話はそれっきり。母からは、何も言われなかった。
母がどう思っているのかはわからない。
でも、僕は、今の生活も気に入っている。
近すぎず、遠すぎず。ちょうどいい、楽な距離。
でも、もういいんじゃないかとも、思う。
土鍋を運ぼうとしたら「代わるよ」と久保田さんが持っていってくれた。僕は食器を持っていく。
母はおとなしく座っていた。
僕がお盆を置くと、手を伸ばしてきた。
「これくらいはいいでしょ?座ってるし」
頷くと、笑って皿を配る。
僕はキッチンに戻って、ご飯をよそった。
よそいながら、リビングを見る。
母が、箸とレンゲを久保田さんに渡した。
久保田さんは受け取って、膝立ちで母に鍋をよそってあげている。
そして、2人で微笑み合っている。
やっぱり、もういいんじゃないかな。