チョコレートを一緒に 〜それぞれのバレンタイン〜

 ご飯を食べた後。
「あの……」
 久保田さんは、ん?という顔。
 なんて言おう。なんて言えばいいんだろう。
「僕、久保田になってもいいです」
「……は?」
 母の口から、間抜けな声がでた。
 2人はぽかんと僕を見ている。
 ちょっと焦る。やっぱり突然過ぎたかな。
「あの、えっと、前から思ってたんだけど、一緒に夕ご飯食べるようになってから結構たったし、もうさ、……け、結婚、とか……しても、いいんじゃないかなって……思って……」
 段々声が小さくなっていった。
 2人は、まだぽかんと僕を見ている。
 突然過ぎたほかに、何か変なこと言っちゃったのかな、と不安になったら、母の目からぶわっと涙が出てきた。
「え……」
「うわ、歩実、大丈夫?」
 久保田さんもちょっと焦って、ティッシュを箱ごと母に渡した。
「ご、ごめんなさい」
 母は涙を拭く。
「ごめん、太一。そんなこと言ってくれるなんて思ってなかったから、思わず泣いちゃった」
 ごまかし笑いをしながら、母は鼻をかんだ。
「気を遣わせちゃってごめんね。太一が中学校入る時にそんな話もあったんだけど、まだ早いかなって思って」
 早い。
 何が早くて、いつならいいんだろう。
「太一のことだけじゃなくてね、自分の中でもいろいろあって。あとほら、正社員になったし、今まで以上に仕事をちゃんとしないとって思って」

 そうか、僕だけじゃなくて、母も周りが変わってたんだ。
 正社員になってから部署も変わったって聞いてる。学校で言えばクラス替えみたいなものだと、久保田さんが言っていた。
 緊張もするし、それこそ慣れるまで時間がかかるだろう。優しい人が多い会社だって聞いてるけど、だからって大変じゃない訳じゃない。

「それにさ、名前が変わるのって、結構大変だって聞くし。お母さんは仕事だけ小平のままでってこともできるけど、太一はそうはいかないし」
「ああ、そのことなんだけど」
 久保田さんが口を開いた。
「僕が小平になればいいんじゃない?」
「へっ?」
 母が、また間抜けな声を出した。
 僕は何を言われているのかわからなかった。
「前に、太一君に名前が変わるのどう?って聞いたことがあったでしょ?太一君は別に嫌じゃないって言ってたけどさ、それから考えたんだ。僕が久保田である必要って、特にないなって」
 久保田さんの口調は軽い。
 前に僕達が住んでたアパートがなくなることになって、今のマンションに住みませんかって言った時と同じ感じ。あの時も、なんでもないような口調で、実は凄いことを言っていた。
 母は焦る。
「そんな、必要ないなんてことないでしょう?久保田家には継ぐものがたくさんあるだろうし」
「継ぐものはあるけど、久保田の名前じゃなくたっていいんだよ。母もそう言ってるし」
「え……まさか」
「この前、って言っても正月にだけどさ、聞いてみたんだ。僕が小平になったら何か不都合ある?って」
「は……」
 母の口からは変な息が漏れた。

 なんとなくしか知らないけど、久保田家はこの辺一帯の大地主だったんだと、前のアパートの大家さん弥生ばあちゃんから聞いたことがある。
 真理ちゃんは、その久保田家の一人娘だった。久道くんが婿養子に入って、継いだそうだけど。
 久保田さんも継がなきゃいけないってことだよね。
 え……小平でいいの?

「うるさい親戚は、一昨年亡くなった母の伯母くらいで、後はもういないし、別にいいんじゃない?って言ってたよ」
 もしかしてそれで『面倒だから、もうそういうことにしちゃいましょ』だった?
「そんな……ダメですよ」
 母は、マンガなら顔に縦線が入るような表情だ。
「どうして?」
 対する久保田さんはにこにこしてる。でもただにこにこしてるだけじゃない。これが、美里ちゃんが『久保田なんてお腹真っ黒だからね』って言ってたやつなのか。
「ウチ、別に商売やってる訳じゃないし。ウチの両親は、僕が医者にならないって決めた時に家を背負わせるのはやめようって決めたらしいよ。だから、特に問題はないよ」
 母は絶句している。
「名前の問題は、これで解決」
「え、でも」
「でも他に理由があるんでしょ?歩実が踏み出せない理由が」
 母は、今度は口をつぐんだ。わかりやすい。何かあるんだ。
 そして、その何かを、母は言わないのに久保田さんは知ってる。
「だから、僕は待つよ。急がなきゃいけない理由もないしね」

 こういう時に、いつも思う。
 久保田さんは、母を大事にしてくれてる。
 母の気持ちを尊重してくれる。

「太一君、ありがとう。嬉しいよ、久保田になってもいいって言ってくれて」
「僕も……小平になってもいいって言ってもらえて嬉しいです」
 久保田さんと僕は、微笑み合う。
 母は、目を見開いて、慌てて口を開く。
「ちょ、ちょっと待ってよ。私を置いて話を進めないで」
「話は進んでないよ。むしろ歩実を待ってるじゃない」
「いやそうかもしれないけど」
「お母さん、落ち着いてよ」
「だって太一」
「僕さ」
 我ながら珍しいと思う。母の話を遮った。
「今のままでも楽しいし、楽だし、全然いいんだ。でもさ、お母さんと久保田さん見てると、結婚してほしいって思う。何か理由があるんだろうけど、もしその理由が僕にあるんだったら、そんなのいいから結婚してよって思う」
 母は僕の顔をじっと見ている。僕は続けた。
 今言わないと、もう口には出せないかもしれない。
「僕は、お母さんも久保田さんも好きだから、その2人が結婚したら、凄く嬉しい」
 かあっと、顔が熱くなった。
 こんなこと言ったの初めてだ。
 見たら、母の目からまた涙が出てきていた。
「太一……」
 そして、母がガバッと抱きついてきた。
 ぐっ、と喉から音が漏れる。勢いで、座椅子が後ろに倒れそうになったけど、なんとか元に戻った。
「ありがと太一……また太一に背中押してもらっちゃった」
「またって?僕なにかした?」
「味噌煮込みうどん。作ったから持ってってって」
「ああ、あれ」
 あの時も、そういえばそうだった。
 久保田さんのことが好きなくせに、ごちゃごちゃいろんなことを考えて踏み出せない母。
 その母の気持ちを尊重し過ぎて、引っ込んでしまいそうだった久保田さん。
 じれったくなって、母を久保田さんのところに行かせたんだった。
「そうだ。あの時も、太一君がきっかけ作ってくれたんだよね」
 久保田さんが思い出したように言う。
「じゃあ引っ込む訳にはいかないよね」
 久保田さんは、僕の後ろに来た。母の顔が見えるからだろう。
 そして、母の手を取る。
「歩実、太一君、名実共に、僕の家族になってください」
 顔は見えないけど、凄く優しい声だった。
「今まで、形なんてどうでもいいと思ってた。自分達がそう思ってれば、家族だからいいって。でも、形も整えられるなら、それもいいのかなとも思う。苗字はどっちでもいい。結婚しよう、歩実。太一と一緒に、僕と家族になってください」
 母が、少し身を起こす。
 僕と顔を合わせた。
 僕の目を覗く。『いいの?』とその目が言っていた。
「いいよ。僕は、その方がいいと思う」
 恥ずかしかったけど、笑顔になれた。
 母が、久保田さんが取った手をぎゅっと握ったのがわかった。身を乗り出したので、僕からは顔が見えなくなる。
「圭さん、太一共々、よろしくお願いします」

 久保田さんの嬉しそうなため息が聞こえた。
 多分、2人共笑顔だ。
 良かった。僕も嬉しい。

 と思ったら、後ろから久保田さんが僕ごと母に抱きついた。
 ぐっ、とまた喉から音が漏れる。
 苦しい。でも嬉しい。でも苦しい。
「……く……」
 声にならない声をだしたら、久保田さんが焦って離れた。
「あ、ご、ごめん太一君、ちょっと我を忘れちゃった」
「ごめんね、大丈夫?」
 母もやっと離れてくれた。
 2人の心配そうな顔が並ぶ。



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