彫刻

黒川が、取材のため情報提供者と、ある料亭にいるときだった。ちょうど一通りの取材を終え、引き上げようとしたとき、突然、隣の部屋から男の怒鳴り声が響いた。

「先輩！なぜ営業部の異動の話、断ったんですか！？僕はねぇ、楽しみにしていたんですよ！先輩とまた一緒に仕事ができると思って！」

「そう言うな、俺だって、色々悩んだんだ」

「悩んだって？何を悩むことあるんですか！この会社で成功したけりゃ営業部に行けって言ってくれたのは先輩じゃないですか！だから営業部に入って頑張ってきたんじゃないですか！それをなんです・・・先輩が断ったなんて信じられませんよ！」

「私には私の事情があるんだよ！もうそんなくだらないことで大声出さないでくれ」

「くだらないだって？いくら先輩でも許しませんよ！納得いくように事情をちゃんと説明してくださいよ！」

「おい、お前飲みすぎだ。頼むから落ち着いてくれ」

「だめだ！僕は納得いく答えを聞くまでは許さない！」

酒の場では良く見かけるサラリーマン同士の口喧嘩だった。店員も他の客も特に気に止める様子もない。黒川も今日の情報提供者に、うそくさい話をさんざん聞かされ、うんざりしていた。「はぁ、やだやだ。ほんとくだらない」その程度に思っていた。次の一言が彼女のアンテナを刺激するまでは・・・。

「怖いんだよ、人と目を合わせるのが！お前にわかるか俺の中にある恐怖が！体験した者にしかわからないんだよ！もう今日はおひらきだ！」

後輩らしき若い男は、酔った勢いとは言え、先輩が声を荒げて発した、その思いもよらない言い訳に唖然としていた。

黒川は無意識にその男の表情を凝視していた。

男は、はっと我に帰ったように「いや、済まない、お前の気持ちは良くわかっている。しかし、お願いだ、もうこの話は二度としないでくれ」
そう言うと、注文伝票の上に一万円札を置き、足早に店を出て行った。

異常に硬直した表情、そして「恐怖」と口走ったときのあの脅えた口調。黒川は直感した。あの男は本物の「恐怖」の体験者だと。