背伸びしても届かない


「僕はその覚悟で、昨晩君と過ごしたんだ。その責任を取ってください」

そう言って笑う桐谷さんを見ていると、桐谷さんと河本さんの会話が不意に胸に過ぎる。

桐谷さんは、過去のことはもう傷ではなく記憶だと言った。でも、果たして本当にそうだろうか。

昨晩の桐谷さんの取り乱した姿が鮮明に蘇って来て、私を惑わせる。
桐谷さんが嫌いになって終わった恋愛じゃない。一方的に断ち切られた関係だ。

河本さんと同じように、まだ心の奥底にその想いが残っていたから、あんなにも感情的になったのだとしたら――。

二人でバーで飲んだ日、桐谷さんは私のことは嫌いじゃないって言ってくれた。

だから、捨て身で飛び込んできた私に情を移した――。

際限なく広がっていく負の妄想に、飲み込まれそうになる。

私の想いを知っていて、一晩を過ごした。
桐谷さんなら、それを後悔するんじゃなく責任を取ろうと思うんじゃないか。

こうして、私と付き合おうと言ってくれるのも、全部、私にしたことへの責任――。

勝手に駆け巡るただの妄想だ。でも、その妄想に納得できてしまう。それなら、全部、つじつまが合うのだ。

『君とはそういう関係になりたくない』と言ったのに、桐谷さんが私の想いを受け入れようとしてくれること。
桐谷さんの性格もこの状況も、すべて説明がつく。桐谷さんは、責任感の強い人だ。

「返事は?」

大きな手のひらが、優しく触れる。私の髪に、頬に。
たとえ責任感からだとしても、私はこの手を振り払いたくない。

その心に違う想いが横たわっていたとしてもーー。

目を閉じる。

たとえそうだったとして。

河本さんが結婚している以上、桐谷さんはどうすることもできない。その想いを遂げることなんて出来ないのだ。
だったら、私は、その責任感に気付かぬふりをしていたい。桐谷さんのそばにいる道を選びたい。

「はい。よろしくお願いします……っ」

胸に過った想像すべてを固く封印する。
ただ、桐谷さんのそばにいられることだけを考える。私の目の前にいる桐谷さんを見ていたい。

他のことは、もう考えないーー。

そう固く自分に誓い、桐谷さんの胸に飛び込んだ。

少しでも桐谷さんの傷を癒せるように。
少しでも辛い過去を忘れられるように、楽しいと思ってもらえるように、頑張るから。


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