背伸びしても届かない



レストランからタクシーに乗り、桐谷さんのマンションにやって来た。
ここからが本番だ。二人きりの密室で、素の私が出ないように、一秒たりとも気が抜けない。

余裕、余裕。いつも心に、大人の余裕――。

この日の私のスローガンだ。

「桐谷さん、タワーマンションを購入したと聞いたことがあるんですけど、違うんですね」

とりあえずは当たり障りのない会話から。小森が言っていたことでも話題にしてみる。

「誰がそんなことを。ここは賃貸だよ。いつ、引っ越すことになるかも分からないし、独り身だからね」

小森め、ガセネタか!

「そんなことより。まず、風呂に入りたい?」

お風呂! 桐谷さんの家の風呂――!

だめだ。そんなことくらいで舞い上がっている場合じゃない。

「そうですね。では、桐谷さんからどうぞ――」
「一緒に、入る?」
「へっ!」

しまった。裏返った声を出してしまった――!

「その方が、時間節約にもなるし」

その声、やめてください。その距離、やめてくださいーー大人の女版小暮華が崩れてしまいます!

桐谷さんが、私の傍に来て腰を抱く。そして、私の顔に顔を近付けて来る。

「い、いえ。今日のところは、遠慮させていただきます」
「そっか……それは残念。じゃあ、今度の楽しみに取っておくよ」
「はい。私も、楽しみにしておきます」

本当は緊張でガチガチの身体で、懸命に微笑みを浮かべる。

桐谷さんがバスルームに消えると、一気に身体から力を吐いた。

これ、もつの? 明日、この部屋を出るまで、もつの――?

ソファに思わず突っ伏す。

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