背伸びしても届かない


だめだ。ここで投げ出しては、すべてが終わる。

私は、大人の女。いい女――。

もう呪文だか黒魔術だか分からなくなる。それだけ私は必死だった。

「――お待たせ。風呂、どうぞ」

ハッとして、振り返る。

あ――。

言葉を失う。

「どうした?」
「あ……っ、い、いえ」

今、完全に素の小暮華に戻っていた。

だって、夢にまで見た、風呂上り桐谷がすぐそこにいるから。

半乾きの濡れた髪がオンの桐谷さんとは違う色気を発散して、くらくらさせる。それに、そのVネックの白いTシャツ。その禁断の襟元は、反則だ。鎖骨の窪みがセクシー過ぎる。

「じゃあ、入って来ます」

だめ。これ以上見ていたらおかしな気分になる。私は逃げるように桐谷さんのお宅のバスルームへと駆け込んだ。

そこに入ったら入ったで、今度は違う緊張が押し寄せる。ここでいつも、桐谷さんはシャワーを浴びるんだ。

ここで歯を磨いて、顔を洗って、ビジネスモード桐谷が出来上がる――。

超プライベートエリアに初侵入して、それだけで既にのぼせ上がる。
服を脱ぐのも緊張する。
シャワーのしぶきを浴びるだけで、恥ずかしくなる。
つまり、もう、普通の精神状態じゃいられない。

そして、バスルームを出てから気付く。

メイク全部落としてどうすんの――?

せっかく完璧に仕上げて来たメイクを、訳が分からないまま全部洗ってしまっていた。

このすっぴんで、至近距離で向き合うの――?

その場でしゃがみ込む。

アホなの? 
私は、正真正銘のアホなのか――?

「どうしたの。体調でも悪い?」

廊下で座り込む私に、廊下に出て来た桐谷さんの声が届く。

「い、いえ。違います。すみません」

まったく必要のない心配をさせるわけにもいかない。慌てて立ち上がった。
それを支えるように私に手を添えた桐谷さんが、心配そうに私を見る。
その目は、心から不安に思っている目だった。

「食事の時から、様子がおかしかった。本当は、体調悪いのに無理していたんじゃないのか? そういうことは、ちゃんと言ってくれ――」
「ち、違うんです!」

本気で心配している桐谷さんに胸が痛くなって、ぶちまけてしまった。


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