彼の素顔は甘くて危険すぎる
スタッフが片付けを始める。
自分自身に納得がいかず、アコースティックギターを手に取り、がむしゃらにそれを弾く。
けれど、痛々しい音だけが鳴り響いて、とても人に聴かせられるようなものじゃない。
去年の夏前に戻ったと思えばいいのに。
それが出来ない。
橘 ひまりという人物を知ってしまった以上。
過去には戻れない。
あの黒々とした光る瞳に見つめられて癒され、心が洗われ、満たされる感情を知ってしまった今はゼロにすることが出来ない。
リセット?
そんなものが簡単に出来るなら、こんな風に感情が抑制出来ないようにはならないっての。
彼女からの刺激があったからこそ、俺も成長出来たし、いい曲も作れた。
彼女がいないから曲が作れないわけじゃないけど、いい曲の仕上がりにはならなそうだ。
19時すぎまでスタジオに籠り、1人で反省会のようなものをして。
夕飯も食べずに自宅の最寄り駅ではない駅で降りる。
無意識に足が向いていた。
彼女の自宅がある『たちばな小児科クリニック』へ。
すると、自宅部分の2階と3階に明かりがついている。
思わず駆け出していた。
ピンポーンッ。
門塀のインターフォンを押す。
すると、『はい』という女性の声が聞こえて来た。
「こんばんは、夜分にすみません。ひまりさんの友人の不破と申します」
「あら、彼氏くん?」
「……ひまりさんは、ご在宅ですか?」
『彼氏くん』という言葉が懐かしい。
ここ数週間訪れていなかったこともあり、久しぶりに聞いた。
けれど、『はい』とは言い難い。
もう、ひまりの中では『彼氏』ではないのだろうから。
少し待っていると、カチャッとした音と共に玄関のドアが開いた。