灰色の世界で、君に恋をする
「この物騒なモンは没収しとくよ」
草壁藤也が言いながら、地面に転がった拳銃を拾った。
「で、オッサンは何がしたかったんだ?」
オッサンと言うけれど、その男は30代前後に見えた。髪はボサボサで髭は山ごもり中の仙人みたいに伸び放題、服はあちこちボロ布だったし、本当のところはよくわからない。
男はがくりと膝を折って、胡座をかいてうな垂れた。縮れた前髪が垂れ下がって顔が隠れていたけれど、泣いているんだとわかった。
「……死のうと思ったんだ」
話し声と一緒に、ひっ、ひっ、としゃっくりみたいな泣き声が口から零れる。
「俺は、死ぬんだ。死ななきゃならねえんだよ。だから、どうせ死ぬんなら、誰でもいいから道連れにしてやろうと思ったんだよ」
「なんで?」
と藤也は間髪入れずに、でも冷静に続ける。
「人にこんなモン突きつけるからには、それなりの理由があるんだろうな?」
その声には、涙を前にしても容赦しない迫力があった。
「俺は最低なところにいたんだ」
と、男はすすり泣きながら語り出した。
いわゆる新興宗教だよ。灰害で家族や恋人を亡くした人間をターゲットにした教団だった。ほら、よくあるだろ、入信すればあなただけは救われます、ってやつ。
俺は好きな女を灰害で失って、何も考えられずに誘われるがまま、気づけばそいつらの一員になってた。半年前にできた教団で、俺が入った頃にはけっこうな人数がいたな。みんな悲しみに暮れながら、それでも自分は助かりたいって縋ってきた連中ばっかで、そんな中での神様は唯一心の拠り所だったわけだ。だから、神様の言うことならなんでもしたよ。
入ったばっかの頃は、掃除とか洗濯とか草むしりとか、雑用ばっかだったんだ。けど1ヶ月くらい経って、急に普段は入れないような部屋に呼び出されたんだ。それで、言われたんだ。あいつを殺せ、ってな。
なんでそいつを殺さなきゃいけないのか、なんで俺なのか、説明は一切なかった。ただ拳銃を渡されただけだった。
言われた通りにすれば、お前は助かる。命令に背けば、今ここでお前は死ぬ。
そんなこと言われたら、やるしかないだろ?俺はやったよ。手が震えて、まともに当たらなかった。何発か壁に当たって、そいつの足に当たって、頭に当てた。今思えば、それも理性をなくさせるためだったんだろうな。人間ってのはそんなことで簡単に堕ちちまうんだ。まともに頭が働かなくなる。まともに考えれば、自分のした罪に耐えられなくなるからな。
だけどな、俺がやらなくても、人は次々死んでった。目の前で灰になった奴を何人も見た。
ここにいても、結局救われることなんてないんだと思った。そのときやっと気づいたんだ。自分がおかしくなってたことに。でもその頃にはもう、取り返しがつかないくらい、俺はたくさん罪を犯してた。
こんなとこ逃げ出してやると思った。どうせそのうち死ぬんなら、最期がこんな最低な場所なんて嫌だと思った。逃げ出そうとしたら連中に捕まって、けど全力で逃げてきて、逃げても逃げても奴らが追ってくる気がして、力尽きて倒れた。
本気で、あんたらのこと、あいつらの仲間だと思ってたわけじゃない。あいつらは異常だ。すぐに見分けがつく。
なあ、俺は最低だよ。最低なことして、それでも死ぬのが怖いと思っちまうんだ。
でも目が覚めたとき、わかったんだ。ああ、今度こそ、俺は死ぬんだって。
ヤケクソになって、あんたらを道連れにしようとした。1人で死ぬのが怖かったんだ。
あいつは1人で死んでったのに。
最期まで、俺の心配ばっかしてたんだ――
「自分の身体が灰になってくの、皮膚の下でなんとなくわかるんだ。身体の端っこからどんどん皮膚の下が固くなってくんだよ。すげえ怖いんだ、いつその時がくるのかって、そう思ったらどうしようもなくなって……」
無意識に、涙が流れるのがわかった。その恐怖が伝わってきた。怖くて怖くて、襲いかかる恐怖に耐えきれなくなって。
「わかります、その気持ち」
私はそう言って、しゃがんで男の手にそっと触れた。
彼は驚いたように顔をあげ、涙で濡れた目で私を見た。
わかるだなんて、陳腐な言葉かもしれないけれど、それでも。
私にはわかった。怖くて怖くて仕方ない気持ち。私も、経験したことがあったから。
今だってそうだ。誰がいつ、灰に変わるかわからない。それは最期の瞬間まで見た目はほとんど変わらず、身体の中で起こっている変化は本人にしかわからない。次は自分かもしれないし、まわりの誰かかもしれない。誰もがそんな恐怖と隣り合わせなのだ。理性でなんて考えられないのだ。
「ありがとう……」
と彼は泣きながら言った。土に塗れた顔から、大粒の透明な涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
「思い出すなあ。あいつもよく、こうして俺の手を握ってくれたんだ。俺は昔から泣き虫で、幼馴染のあいつはいつもこうやって手を握ってくれてた。同じ歳なのに姉貴みたいなやつだった。一緒にいるのが当たり前で、あいつがいなくなることに、俺は耐えれなかった。あいつがいなくなる前日の夜だった」
――私、もうだめみたい。
と彼女は言った。
――ねえ、私がいなくなっても、ちゃんとご飯食べてね。泣いたりしないで、しっかり生きてね。あ、でも私、あんたの泣き顔、けっこう好きだったよ。つい守ってあげたくなっちゃうの。
「普通、逆だよな。俺があいつを元気づけなきゃいけねえのに。俺は泣いてばっかで、背中叩かれて。最期に、あいつが言ったんだ」
――ずっと好きだったよ。大好きだった。
「こんなときに、なんでそんなこと言うんだよ、もっと早く言ってくれよって、俺は最後まで情けないことばかり言って」
――俺も好きだよ。ガキの頃から、ずっと、好きだったよ。
「最期に、そう言えたんだ。やっと。言えてよかった。言わずに失うのは、もっと辛かった」
手を握っていたから、わかった。彼の身体の中で起こっていた変化が、ついに外に現れはじめたこと。
手のひらにざらりとした感触を感じた。
「――っ!」
息が止まった。彼はわかってるというように、1度頷いた。
涙を流しながら――その涙が伝う土まみれの顔が灰色に変わる瞬間を、私は見た。
*
「行こう」
と藤也が言って歩きだしてから、山を下り終えるまで、会話は一言もなかった。
山のふもとに、藤也のオンボロの軽トラが停めてあった。
「さ、乗って乗って」
昨日の恐怖が再来して、私は乗るのを躊躇った。
ユキは軽トラをじっと見つめたまま動こうとしない。
「藤也」と、ユキが怒っているような低い声で言った。
「さっきも訊いたけど、なんでお前がここにいるんだ」
「ああ、うんまあ、驚くよね。つうか、驚かせようと思って黙ってたんだけど」
藤也は少し笑いながらそう言って、あの後さ、と続ける。
「兄貴が死んだとき、うちに来た紫乃さんが言ったんだ。家族でこっちに越してこないかって。もうここらじゃもう仕事もないでしょうって」
「紫乃さんに?」
「紫乃さん、俺のおばさんなんだ。親父のほうの。親父も地元で仕事なくしてたから、それでここに越してきたってわけ」
「なるほど……いや、やっぱおかしいだろ」
ユキは一瞬納得しかけたけれど、首を振った。
「なんでおまえ、免許なんて持ってるんだよ?まさか無免……」
「まさか。ちゃんと持ってますって」
藤也は財布から、昨日の免許証を取り出して見せた。
「え……?」
ユキは唖然としている。免許証と、藤也の顔を交互に見る。
「じつはサバ読んでました。黙っててゴメンね?」
「は?」
「留年してんだよ、1年」
藤也は諦めたように白状した。
「俺、こう見えて中学のとき病弱少年でさあ。入院が長引いてほとんど学校行けなかったときがあって、中2を2回やってるんだ」
「病弱?」
ユキが疑わしそうに訊き返す。無理もない。今の藤也は背が高くて筋肉質で、どこをどう見ても病弱少年には見えない。
「鍛えたんだよ。病気が治って、2度と再発させるかって、必死で」
「じゃ、高1のときは、もう出来上がってたってことか」
「頑張りすぎちゃって、逆に由貴とか超ひょろく見えたもんなー」
「……ほっとけ」
「で、その様子だとうまくいったかんじ?」
藤也がにやりと笑って、ユキに詰め寄る。
「は?なにが……」
「まあまあ、照れなくていいって」
「照れてない!」
顔を赤くするユキの反応を、藤也は完全におもしろがっている。
私は2人から少し離れて、目線を遠くに投げかける。
山のふもとから続く道は緩やかな下り坂になっていて、街並みがよく見渡せた。民家、公園、路地で遊ぶ子どもたちや遠くに聴こえる犬の鳴き声。
ほんとうに世界の終わりなんてあるんだろうかと思えるくらい、平和で和やかな景色だった。灰色の空はすこし長すぎた曇り空で、明日になれば太陽だって、ふらっと思い出したように顔を出すかもしれない。
でも――
私は手のひらを見つめる。
まだ、人の身体が灰に変わる瞬間の感触が、鮮明に残っている。さらりとした細かい砂のような、それが人の一部だったなんて信じられないような。
でも、私はこの目で見て、この手に触れた。この記憶が、残酷な現実を物語っていた。
人は本当に、あっという間に、人が灰に変わってしまうんだ。
頭ではわかっていたはずなのに、心で受けとめるのは難しかった。いつ誰がそうなるかなんてわからない。いい人も悪い人も、頭がよくても悪くても、お金持ちでも貧乏でも、そんなのはもう何にも関係ない。
ここにいる私も、ユキも、藤也も、明日にはもう、いなくなってしまうかもしれない。
怖い、と思った。とてつもなく、怖くなった。大切なものを、どんどん失っていくことが。
「――イノリ」
ふいに名前を呼ばれて、はっと顔をあげる。
「大丈夫?顔色悪いけど」
「あ……」
大丈夫、そう言いたかったけど、言葉が出てこなかった。これじゃ余計に気を遣わせてしまうって、わかっているのに……。
「なあ、今から風呂いかね?」
藤也がおもむろにそう言った。
「は?」
「えっ?」
私とユキがキョトンとして藤也を見る。
「銭湯だよ。近くにいいとこがあんの」
「唐突だな」
ユキが呆れたように言った。
「で、どうする?行くの、行かないの?」
「行くっ!」
私は思わず叫んだ。
「え?」
ユキが驚いて私を見る。
「私、銭湯って行ったことないんだ。行ってみたかったの」
「まじ?それも珍しいね」
「まじです」
私はこれまで、自由にできることがほとんど何もなかった。
銭湯やプールは「不衛生だからダメ」で、漫画や流りの音楽を聴くのは「馬鹿になるからダメ」で、学校帰りの寄り道は「勉強の妨げになるからダメ」で。そういえば夏らしいことも全然してこなかった。海も川も花火もお祭りも、本当はしたいことがたくさんあったのに。何もかも親や学校に決められた範囲で、とても狭い世界で私は生きてきたんだと思う。
「じゃあ、今日が初体験てことで」
藤也がぱしっと私の腕をとる。
「調子にのるな」
ユキがぐいっとその手を引き離す。
「……あははっ」
私は思わず笑ってしまった。
元気づけようとしてくれているのがわかった。私が落ち込んでいたから。
「ありがとう」
と小さくつぶやいて、オンボロの軽トラに乗り込んだ。ガタゴト音を立てるトラックに揺られて、坂を下っていく。
*
銭湯には誰もいなかった。いや、正確にいえば、やたらガタイのいい強面のおじさんと、紫乃と同年代くらいのおばさん3人組がいた。でも、お店の人は誰もいなかった。
おじさんもおばさんたちも、藤也を見かけるとみな親しげに笑いかけてくる。
「よう藤也」
「藤也くんこんにちは。あらあ今日はお友達も一緒?」
「そうなんですよ。地元の友達と、その彼女」
藤也がさらっととんでもないことを言う。
「か、彼女……?」
「おい勝手なこと言うな」
ユキが腕にパンチを食らわせる。
私は、赤くなった顔を見られたくなくて俯いた。
彼らが暖簾の奥に入って行った後で、
「随分馴染んでるんだな」
とユキが意外そうに言った。
「ここには小さい頃からよく遊びにきてたから。知り合いは多いよ。第2の地元みたいなもんだ」
そっか、とひそかに納得する。藤也は昨日来たばかりの私たちと違って、まるでずっと前からここに住んでいるみたいに、この土地に馴染んでいた。少しも違和感がなかった。
藤也は懐かしそうに続けた。
「ここな、80歳のじいさんがずっと1人でやってたんだけど、いなくなっちゃって。それでボランティアの人が交代で管理してるんだ」
さっきのガタイのいいおじさんもその1人で、自分もお風呂に入るついでにやって来て、ボイラーの調節などもしているのだと言う。
「俺も呼ばれれば掃除とかするし。みんなで守ってるんだ。ずっと昔からここにあって、町の人にとってないと困る場所だから」
藤也はどこか誇らしげにそう言った。
みんなで守ってる。昨日も聞いた言葉だった。行き場をなくした人たちがこの町に寄り添い、助け合いながら生きているんだ。
男湯と女湯に分かれた暖簾をくぐると、それほど広くはない脱衣所があった。棚のひとつひとつに籠があり、中にタオルがたたんで置いてあった。さっきのおばさんたちのよく通る話し声が、ガラスの扉ごしに浴場のほうから聞こえてくる。
私はなんだかどきどきしながら服を脱ぎ、扉を開けた。
「わぁ……」
思わず、声をあげた。タイル張りの空間に、真ん中にどんと大きな浴槽があって、隣にその半分くらいの浴槽が並んでいる。壁際にはシャワーが並んでいて、そのひとつひとつに木桶が置いてある。そこはまさに、私のイメージ通りの「昔ながらの銭湯」だった。
浴場にもしひとりだったら、子どもみたいにはしゃぎ回っていたかもしれない。人がいるから我慢したけど、今にもお風呂に飛び込みたい気持ちでうずうずした。
頭と体を洗って、タオルで髪を巻きつけて、いざお風呂へ。と言いつつ、やっぱりはじめはおそるおそる、足の指先からお風呂につける。
「あつ――っ!」
予想以上の熱さに、思わず足を引っ込めた。
「お姉ちゃん、こっちは熱いほうだから、まずは隣の小さいほうで温まってから入るんだよ」
おばさんの1人が笑いながら教えてくれた。
「あ、ありがとうございます」
「初めて入るひとは大抵びっくりするんだよ」
「それくらい熱いのがいいんだよねえ」
そう言うおばさんたちは、熱々の大きいほうのお風呂に、平気な顔で肩まで浸かっている。
私は気を取り直して、小さいほうのお風呂にちゃぷんと浸かった。
ほんとだ。私はホッとする。こっちは入り慣れた家のお風呂の温度だった。
ふう、と息をつく。昨日今日と、立て続けにいろんなことがあって、身体が疲れていた。身体を休めると、安心するのか、内側に溜まった疲れがどっと疲れが外に出てくる。
白い湯気に浸かりながら、私はぼうっと頭を空っぽにする。もうそのまま眠ってしまいそうなほどの心地よさだった。
そのうちに、おばさんたちが笑い声をあげながら出て行った。私はぱちりと目を開ける。
無人になった大きいほうのお風呂からは、白い湯気がもうもうと茹っている。いかにも熱そうな感じが全面に出ている。
私は大きいほうに移動して、お湯につま先をつけてみた。
「熱くない……!」
いや、熱いけど、さっきみたいにとても入れないほどじゃない。いける、と思った私は、ひと思いにざぶんと体までお湯に浸かった。
ちょっと感動的な瞬間だった。すごく熱いのに気持ちがいい。激辛カレーを辛い辛いと言いつつも食べてしまうみたいな感じ。いや、食べたことはないんだけど。つまり、なんだか、ちょっと大人になった感じ。
慣れてくると、私はすいすいと浴槽を泳いでみた。ひとりだからできることだった。端から端まで泳いで、また戻ってきて、何度か繰り返しているうちに、扉がガラリと開いて私は動きをぴたりと止めた。
女の人と目があって気まずくなる。
「こんにちは……」
とりあえず挨拶してみると、
「ふふ、こんにちは」
ちょっと笑いながら返されて、余計に恥ずかしさ倍増だった。
お風呂から出ると、2人が壁際のベンチに座って話していた。
ユキの少しクセのある黒髪が、濡れて落ち着いていて、さっきとは違う雰囲気に見える。首にタオルをかけて、?がほんのり上気していて、なんだかーー
「あ、イノリ」
ユキが私に気づいて、笑顔を向ける。不意打ちの笑顔に、どきりとした。
立ち上がって、こっちに歩いてくる。
「はい、これ」
「え?」
「コーヒー牛乳だよ。銭湯の定番」
と、コーヒー牛乳の瓶を渡してくれる。
「俺はソーダ派だけどな。風呂上がりはさっぱりしたもん飲みたくね?」
と藤也がすかさず反論。
「邪道だ」
「ソーダを馬鹿にするのか」
なにやら言い合いをはじめた2人に、私はぷっと吹き出した。
「ありがとう」
と言って、コーヒー牛乳を受け取る。
ゴム製の蓋をキュポンと開けて瓶を傾ける。冷たくてとろりと甘めのコーヒー牛乳が、温まった体に心地よく流れる。
「甘くておいしいー」
「な?」
ユキが嬉しそうに笑った。
コーラを飲み干した藤也が、すっくと立ち上がった。空の瓶をケースに入れると、
「そんじゃ、俺ちと用事あるから帰るわ。あとは2人でごゆっくりー」
と、いきなり帰っていこうとする。
「え……待て待て!」
「なんだよ。俺がいないと不安ってかあ?可愛いやつめ」
藤也がにやりと笑ってユキの肩に手をかける。
「ま、しっかりやれよ」
「うるさい」
「ハイハイ、だからお邪魔虫は帰るって」
じゃあねー、とひらひら手を振りながら、本当にサクッと帰って行った。
「気まぐれな人だね……」
「ああいうやつなんだ」
はあ、とユキがため息をつく。
「美しきかな、青春……」
どこからかつぶやく声が聞こえて、2人してビクッとする。
「うわ!びっくりした」
とユキが振り向いて驚く。そこには、いつの間にか番台にゴルゴみたいないかつい顔のおじさんが腕を組んで座っていた。なんとも不釣り合いな取り合わせだ。
「すまない。驚かせるつもりはなかったんだが、つい若い頃を思い出してしまってな」
「はあ」
「美しい思い出は心に秘めておくもの。無駄に語りはしないがな」
あ、言わないんだ……。
あの、とユキがおじさんに声をかける。
「今日はありがとうございました。お風呂、気持ちよかったです。お金はーー」
と財布を出しかけたユキの手を、おじさんが止めた。
「俺だけがやってるわけではない。よって俺が代金をもらうわけにはいかん」
「でも……」
「人の厚意はありがたく受け取っておくものだぞ少年」
キリリと強い目力でそんなことを言われては、もう何も言えなくなる。そもそも財布も何も持っていない私は、払えるお金もないのだけれど。
「ありがとうございます」
2人で深々頭を下げて、銭湯を後にした。
*
『風見鶏』の庭先から、賑やかな声がした。パチパチと炭酸が弾けるみたいな音。それから空気が焼けるようなどこか懐かしい匂い。
なんの匂いだっけ?と思うのと、ユキが声をあげたのが同時だった。
「あ、花火やってる」
「花火?」
私は真っ先に、夜空にあがる打ち上げ花火を頭に浮かべて、空を見上げた。けれど頭上には、少し暗くなりかけた灰色の空があるだけだった。
「違う違う、手持ちのほうだよ」
ユキが笑いながら庭先を指差す。
あ、と思った。ほんとだ、花火だ。
私たちに気づいて、薄紫色の浴衣を着た紫乃さんがにこやかに手を振った。
「こっちおいで、今はじめたところなのよ」
私はちょっと戸惑いながら、「行こ」と言うユキに続いて、庭に入っていく。
見るとそこには、紫乃さんの他に今朝お店に来ていた美人なお母さんと小さな女の子、それから腰の曲がったおじいさんと、さっき銭湯にいたいかついおじさんもいた。美人な母娘といかついおじさんも浴衣姿だ。
みんなも私たちを見て、口々に挨拶をしてくれる。
「こんばんは」
と私たちも言った。
「また会ったな」
おじさんはやっぱりゴルゴみたいなキリリとした目つきと渋い声でそう言った。
「あら、あなた、この子たちと知り合いだったの?」
と美人なお母さんが言った。その背中に隠れるようにして、女の子がちらちらとこちらを見ている。
「ああ。銭湯で語り合った仲だ」
語り合ったっけ!?と内心びっくりしつつ、私は美人なお母さんにぺこりと頭を下げる。
「うちの主人がお世話になったみたいね」
彼女はくすりと微笑んで、みんなを紹介してくれた。
美人なお母さんが由美子さん、いかついおじさん改めいかついお父さんが清次さん、娘の4歳の女の子がみどりちゃん。
「田中じゃ」
とおじいさんがよりいっそう背中を丸めて花火をパチパチと散らせながら言った。
「そうだ祈ちゃん」
と紫乃さんに呼ばれて振り向く。
「せっかくだから浴衣着ない?娘のがあるのよ」
「えっ、いいんですか?」
「いいのいいの。夏は花火と浴衣でしょ」
そういうわけで、お店の奥に連れられて由美子さんに着付けをしてもらうことになった。
「私ね、ここの隣の町で、美容師をしてたのよ。それでたまにだけど、着付けもしていたの」
由美子さんは浴衣の丈を調節しながら、そう言った。淡いピンクの地に、赤と白の花が描かれた可愛らしい浴衣だった。
「そうなんですか」
と私はまだ少し緊張しながら答える。
「着物って、何かの節目のときに着るものでしょう。だから少しでも、誰かの人生の記念日のお手伝いをさせてもらえるのが嬉しかったわ」
由美子さんは懐かしそうに話しながら、私の後ろにまわってキュッキュッと浴衣の形を整える。
「浴衣も同じ。誰かの特別な日を、応援したいと思うのよ」
由美子さんは、ぽん、と私の肩に手を置いて、にっこりと微笑んだ。
「特別な日、ですか?」
「ええ、そうよ」
特別な日。なんだかその言葉は、神秘的な響きを持っていた。
由美子さんが、私の髪にそっと触れる。
「髪、あげてもいいかしら?」
「はい、お願いします」
私の長い髪を、由美子さんは器用にアップにまとめて、きらきらと金色に光る髪留めをつけてくれた。細い肢の先に水滴みたいな小さな花がついている。
鏡の前に立って、わあ、と声をあげる。
「どうかしら?」
「すごいです……」
私は感動しながら言った。鏡に映る自分は、まるで自分じゃないみたいだった。いつもと違う格好や髪型をするだけで、こんなにも違う自分になれるんだ。
「祈ちゃんにとって今日が特別な日になるように、応援してる」
由美子さんはにっこりと美しく微笑んでそう言った。
それから、内緒話を打ち明けるみたいに、ひそりと付け足す。
「花火ね、みどりが祈ちゃんたちと遊びたいって持ってきたの。仲良くしてあげてね」
と、しっかり母の顔も見せた。
*
一度だけ、私は手持ち花火をしたことがあった。それはこんなふうに賑やかで楽しげなものではなく、静かで少し切なげな花火だった。夜でさえなく、灰色の空の下、5月の真昼の屋上だった。
いつものように屋上でお弁当を食べた後、サユミがおもむろに鞄から取り出したのは、花火だった。大きなものじゃなくて、小さめのビニール袋に入った線香花火だ。線香花火は5本入っていた。
「これ、やらない?」
まるでおやつをあげるみたいな気軽さで、サユミは線香花火を私に差し出した。サユミの奇行には慣れていたものの、さすがにこれにはびっくりしてしまった。
『ええ?学校で火は使っちゃダメだよ』
『学校なんてなくしちゃおうよ、これで』
サユミはケラケラと笑った。
線香花火ではさすがに火事にはならないだろう、と思っても、悪いこと、という意識は拭えない。
『やっぱりやめようよ。せめて外でやろう?』
私が止ても、サユミは知らん顔をしている。
『高い場所でやりたいんだ。私たちが登れる高い場所なんて、しれてるじゃん?』
サユミが何をしたいのか、私にはよくわからなかった。
「いいよ、嫌ならひとりでやるし」
サユミがふいっと拗ねてしまうから、私はつい「わかった、わかった」と言ってしまった。
いつも何かに縛られていた私には、校則なんて守らずにしたいことをする、そんなサユミの自由さが眩しかったんだ。
サユミはマッチを擦って、自分のと私の線香花火に火をつけた。真昼の屋上に、パチパチと線香花火が小さく弾けた。夜の花火もやったことはないけど、昼の花火はなんだか不思議な感じがした。
『線香花火の火が長持ちしたほうが、願いが叶うんだって』
と、サユミが言った。
『サユミは何をお願いするの?』
『うーん。生きてるうちに、恋ができますように!』
あはは、と私は笑った。危うく花火が落ちそうになって慌てた。
『祈のお願いは?』
『私は……生きてるうちに、ユキに会えますように』
『会うだけ?会ってどうするの?』
『……わかんない
『なんだそりゃ』
サユミが呆れたように言った。
『ま、でも祈らしいかもね』
真昼の線香花火はパチパチと静かに控えめに燃え続けた。小さくなったり大きくなったり、ときどき消えそうになったかと思ったらまたぽうっと火がついたり。
こんなに細くて小さいのに、すごい。まるで生きているみたいに、その細くて小さな火花は様々に形を変え、そのたびに私はいつ落ちるのかはらはらした。
長持ちしたのは、私のほうだった。
『やったあ!』
私は思わず飛び上がった。
『あー悔しい!』
『もう1回やる?』
『やらない、一発勝負だから』
『なんか、男気あるね』
『自力で彼氏つくってやるもんね!』
立ち上がって叫ぶサユミがおかしくて、私はあははと笑った。
恋愛禁止なんて古くさい学校の規則も、世界の終わりも関係なく、サユミは恋がしたいと言った。あたしはしたいことをするの。ただそれだけ。
サユミが引っ越していったのは、それからすぐのことだった。
――ねえ、サユミ。
私たちの願い、どっちも叶ったね。
私はユキに会えたし、サユミは好きな人ができた。
好きな人がそばにいて、この気持ちを知ることができて、幸せだよ。サユミの手紙には、そう書いてあった。
そうかもしれない。
私の願いは、桜を見ることよりなにより1番は、「いつかユキに会いたい」それだけだった。
いちばんの願い事が叶ったのだから、もう充分なのかもしれない。
これ以上何かを望むのは、ぜいたくなことなのかもしれない。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
幼い声にはっとして見ると、みどりちゃんが心配そうに私を見上げて立っていた。
「ううん、どうもしないよ」
私は慌てて笑顔をつくってそう言った。でも、みどりちゃんは納得いかなそうな顔をする。
「でも、お姉ちゃん、悲しそうな顔してた」
大きなふたつの瞳が、私をじっと見つめる。心の奥を覗かれてしまいそうな気がして、どきりとした。
「そんなことないよ。楽しいよ。みどりちゃん、一緒に花火やろうか」
「うん。じゃあ、これあげる」
みどりちゃんが持っていた花火を、少し恥ずかしそうに渡してくれた。
「ありがとう」
私は受け取って、みどりちゃんと一緒にろうそくから花火に火をつける。
「わあっ!?」
いきなり先端からロケットみたいに火花が吹き出して、びっくりして思わず花火を落としてしまった。前にサユミとやった線香花火とは、全然レベルが違う。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「う、うん……」
うう、4歳児に心配されるなんて、情けない……。
「イノリ、ビビりすぎ」
ユキが笑いながら、落ちた花火を拾ってくれる。消えかけていた火花が、また息を吹き返したように強くなって、私は思わず後ずさりする。
「このお姉ちゃん、花火やったことないんだってさ」
ユキが笑いながら言うと、みどりちゃんが珍しいものを見るみたいに目を丸くした。
「ほんとに?ヘンなのー」
「なー、変だよな」
「あはは、お姉ちゃんヘンーっ」
「ほっといてください……」
私はがっくり項垂れた。
さっきまでお母さんの背中に隠れてたみどりちゃんは、もうすっかり打ち解けている様子。小さい子ってすごいなあ、と感心してしまう。
「こっちのほうがやりやすいかも」
とユキが新しいのを持ってきて差し出す。
「あ、ありがとう」
おそるおそる火をつけてみると、
「わ、かわいい……!」
大きめの線香花火みたいに、先っぽでパチパチと火花が弾けた。さっきのロケットみたいな勢いがない。これならできそう。
「でしょ」
そう言って笑うユキの花火からは、シュババババと勢いのある花火が散っている。私には絶対にできそうにないやつだ。
「みてみて、色が変わるよ!」
「ほんとだ、すごい!」
私とみどりちゃんは一緒になってはしゃいだ。
「精神年齢一緒だな」
とユキが笑った。
紫乃さんや由美子さんや清次さんも笑って、田中さんはいつの間にか縁側で舟を漕ぎはじめていた。
あたりがだんだん暗くなるにつれて、花火の光が強くなっていく。
暑くもない8月の夜。こんなに普通じゃなくなった世界でも、浴衣を着て花火をして、精一杯夏を楽しもうとしている人たち。
なんて、きれいなんだろう、と思った。
こんなにきれいな世界を、私は今まで知らなかった。できることなら、いつまでもここにいたい、と。
「じゃあ、最後に線香花火いきますか」
紫乃さんが言って、みんなに1本ずつ線香花火を配った。
「最後まで残った人は、うちの特性デザートをサービスします!」
「わーい!」
みどりちゃんがぴょんぴょん飛び跳ねる。
「なんじゃと」
こくこくと舟を漕いでいた田中さんが、突然むくりと起き上がった。でも上がったのは顔だけで、背中はやっぱり曲がってる。
「勝負事で負けるわけにはいかん」
清次さんが渋い声で言って、
「あなた、大人気ないわよ」
と由美子さんがたしなめる。
「手がぶれないようにすると長持ちするよ」
とユキが小声で教えてくれて、
「う、うん」
私はその息がかかりそうな距離にドキドキしていた。
薄い暗闇の中で、みんなの線香花火に火がついた。ぽうっと控えめにランプを照らすように火の玉がつき、少ししてパチパチと小さな火花が散りはじめた。
小さくなったり、大きくなったり。消えかけたり、またついたり。昼と夜では、線香花火の色は全然違った。昼間は白く、夜は鮮やかな黄色だった。
きれい。私は夢見心地でそう思った。
「ああっ!?」
その瞬間に、ぽとり、と火の玉が力尽きて地面に落ちてしまった。
「ああーデザート……」
がっかりする私を見てユキが笑い、その拍子にユキの線香花火も落ちた。
「ああー……」
最後に残ったのはみどりちゃんと田中さん。
「みどりちゃんがんばれ!」
「がんばれええええみどりいいいい!」
清次さんの過剰な応援にみどりちゃんがビクッとして、小さな灯火があっけなく地面に落ちた。
「残念だったなあみどり……!」
「ていうかパパのせいなんだけど」
みどりちゃんの冷ややかな言葉に固まる清次さん。
田中さんは、ふぇっふぇっ、と歯の隙間から漏れるような笑い方をした。
「はいはい、歯抜けのおじいさんにデザートひとりじめさせるのはもったいないので、全員にサービスしますよ」
といつの間に用意していたのか、紫乃さんがお盆に人数分のアイスを乗せて持ってきてくれた。透明のガラス皿に入ったバニラアイスに、真っ赤なさくらんぼとウエハースが添えてある。
「アイスだ!やったあ!」
みどりちゃんが飛び跳ねた。
「よかったなあ、みどりい……!」
清次さんが目に涙を浮かべて言う。渋い見た目のわりに感情豊かな人だ。
「いただきまーすっ」
バニラアイスはさっぱりとしたミルク風味で、ウエハースにちょっとだけ乗せて食べるとぜいたくな感じがした。
「おいしいね」
と私は笑ってユキに言った。ユキも笑ってくれるかと思ったけど、
「……うん、おいしい」
と言葉とは裏腹に、浮かない顔を浮かべた。
「どうしたの?」
あのさ、とユキが少し声を強めて、私を見た。
「ちょっと、話があるんだけど、いいかな」
「え?うん……」
話ってなに?と尋ねる前に、
「後で、その辺散歩しよう」
とぎこちない笑顔を浮かべてユキが言った。
アイスを食べ終わって片付けをしてから、紫乃さんにことわって、私たちは夜の散歩に出かけた。
目の前に、小川が流れている。私たちは川沿いをゆっくりと歩いた。賑やかなときは聴こえないけど、静かになると、さらさらと川の流れる音がよく聴こえた。
「イノリ」
ふいに、ユキが立ち止まって言った。
「俺、もう家には帰らない覚悟で、ここに来たんだ」
私は目を開く。ユキの声は真剣だった。
「イノリが好きだから。ずっと前から、好きだったから」
思わず、息が止まった。びっくりして。嬉しくて。信じられなくて。
――ずっと前から、好きだったから。
それは、私がいちばん欲しかった言葉。
どうして、そんなこと言うの。そんな、嬉しい言葉をくれるの。
「…………っ」
言葉よりも先に、気持ちがあふれて、涙が流れた。
「えっ、イノリ……?」
うろたえるユキに、私は余計に涙が止まらなくなる。
これ以上ないくらい、嬉しいのに。
それなのに、私は――
「ごめんね……っ」
泣きじゃくりながら、そう言った。
だって、想像もしなかったんだ。
私がずっと、いちばん欲しかった言葉を、君がくれるだなんて。
そうなったらいいな、とは何度も思った。数えきれないくらい夢にも見た。
でも今、痛いほど思い知る。
私は本当には、何もわかっていなかったんだって。
夢が現実になったとき、自分がどんな気持ちなるのか――、
全然、わかっていなかったんだ。
草壁藤也が言いながら、地面に転がった拳銃を拾った。
「で、オッサンは何がしたかったんだ?」
オッサンと言うけれど、その男は30代前後に見えた。髪はボサボサで髭は山ごもり中の仙人みたいに伸び放題、服はあちこちボロ布だったし、本当のところはよくわからない。
男はがくりと膝を折って、胡座をかいてうな垂れた。縮れた前髪が垂れ下がって顔が隠れていたけれど、泣いているんだとわかった。
「……死のうと思ったんだ」
話し声と一緒に、ひっ、ひっ、としゃっくりみたいな泣き声が口から零れる。
「俺は、死ぬんだ。死ななきゃならねえんだよ。だから、どうせ死ぬんなら、誰でもいいから道連れにしてやろうと思ったんだよ」
「なんで?」
と藤也は間髪入れずに、でも冷静に続ける。
「人にこんなモン突きつけるからには、それなりの理由があるんだろうな?」
その声には、涙を前にしても容赦しない迫力があった。
「俺は最低なところにいたんだ」
と、男はすすり泣きながら語り出した。
いわゆる新興宗教だよ。灰害で家族や恋人を亡くした人間をターゲットにした教団だった。ほら、よくあるだろ、入信すればあなただけは救われます、ってやつ。
俺は好きな女を灰害で失って、何も考えられずに誘われるがまま、気づけばそいつらの一員になってた。半年前にできた教団で、俺が入った頃にはけっこうな人数がいたな。みんな悲しみに暮れながら、それでも自分は助かりたいって縋ってきた連中ばっかで、そんな中での神様は唯一心の拠り所だったわけだ。だから、神様の言うことならなんでもしたよ。
入ったばっかの頃は、掃除とか洗濯とか草むしりとか、雑用ばっかだったんだ。けど1ヶ月くらい経って、急に普段は入れないような部屋に呼び出されたんだ。それで、言われたんだ。あいつを殺せ、ってな。
なんでそいつを殺さなきゃいけないのか、なんで俺なのか、説明は一切なかった。ただ拳銃を渡されただけだった。
言われた通りにすれば、お前は助かる。命令に背けば、今ここでお前は死ぬ。
そんなこと言われたら、やるしかないだろ?俺はやったよ。手が震えて、まともに当たらなかった。何発か壁に当たって、そいつの足に当たって、頭に当てた。今思えば、それも理性をなくさせるためだったんだろうな。人間ってのはそんなことで簡単に堕ちちまうんだ。まともに頭が働かなくなる。まともに考えれば、自分のした罪に耐えられなくなるからな。
だけどな、俺がやらなくても、人は次々死んでった。目の前で灰になった奴を何人も見た。
ここにいても、結局救われることなんてないんだと思った。そのときやっと気づいたんだ。自分がおかしくなってたことに。でもその頃にはもう、取り返しがつかないくらい、俺はたくさん罪を犯してた。
こんなとこ逃げ出してやると思った。どうせそのうち死ぬんなら、最期がこんな最低な場所なんて嫌だと思った。逃げ出そうとしたら連中に捕まって、けど全力で逃げてきて、逃げても逃げても奴らが追ってくる気がして、力尽きて倒れた。
本気で、あんたらのこと、あいつらの仲間だと思ってたわけじゃない。あいつらは異常だ。すぐに見分けがつく。
なあ、俺は最低だよ。最低なことして、それでも死ぬのが怖いと思っちまうんだ。
でも目が覚めたとき、わかったんだ。ああ、今度こそ、俺は死ぬんだって。
ヤケクソになって、あんたらを道連れにしようとした。1人で死ぬのが怖かったんだ。
あいつは1人で死んでったのに。
最期まで、俺の心配ばっかしてたんだ――
「自分の身体が灰になってくの、皮膚の下でなんとなくわかるんだ。身体の端っこからどんどん皮膚の下が固くなってくんだよ。すげえ怖いんだ、いつその時がくるのかって、そう思ったらどうしようもなくなって……」
無意識に、涙が流れるのがわかった。その恐怖が伝わってきた。怖くて怖くて、襲いかかる恐怖に耐えきれなくなって。
「わかります、その気持ち」
私はそう言って、しゃがんで男の手にそっと触れた。
彼は驚いたように顔をあげ、涙で濡れた目で私を見た。
わかるだなんて、陳腐な言葉かもしれないけれど、それでも。
私にはわかった。怖くて怖くて仕方ない気持ち。私も、経験したことがあったから。
今だってそうだ。誰がいつ、灰に変わるかわからない。それは最期の瞬間まで見た目はほとんど変わらず、身体の中で起こっている変化は本人にしかわからない。次は自分かもしれないし、まわりの誰かかもしれない。誰もがそんな恐怖と隣り合わせなのだ。理性でなんて考えられないのだ。
「ありがとう……」
と彼は泣きながら言った。土に塗れた顔から、大粒の透明な涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
「思い出すなあ。あいつもよく、こうして俺の手を握ってくれたんだ。俺は昔から泣き虫で、幼馴染のあいつはいつもこうやって手を握ってくれてた。同じ歳なのに姉貴みたいなやつだった。一緒にいるのが当たり前で、あいつがいなくなることに、俺は耐えれなかった。あいつがいなくなる前日の夜だった」
――私、もうだめみたい。
と彼女は言った。
――ねえ、私がいなくなっても、ちゃんとご飯食べてね。泣いたりしないで、しっかり生きてね。あ、でも私、あんたの泣き顔、けっこう好きだったよ。つい守ってあげたくなっちゃうの。
「普通、逆だよな。俺があいつを元気づけなきゃいけねえのに。俺は泣いてばっかで、背中叩かれて。最期に、あいつが言ったんだ」
――ずっと好きだったよ。大好きだった。
「こんなときに、なんでそんなこと言うんだよ、もっと早く言ってくれよって、俺は最後まで情けないことばかり言って」
――俺も好きだよ。ガキの頃から、ずっと、好きだったよ。
「最期に、そう言えたんだ。やっと。言えてよかった。言わずに失うのは、もっと辛かった」
手を握っていたから、わかった。彼の身体の中で起こっていた変化が、ついに外に現れはじめたこと。
手のひらにざらりとした感触を感じた。
「――っ!」
息が止まった。彼はわかってるというように、1度頷いた。
涙を流しながら――その涙が伝う土まみれの顔が灰色に変わる瞬間を、私は見た。
*
「行こう」
と藤也が言って歩きだしてから、山を下り終えるまで、会話は一言もなかった。
山のふもとに、藤也のオンボロの軽トラが停めてあった。
「さ、乗って乗って」
昨日の恐怖が再来して、私は乗るのを躊躇った。
ユキは軽トラをじっと見つめたまま動こうとしない。
「藤也」と、ユキが怒っているような低い声で言った。
「さっきも訊いたけど、なんでお前がここにいるんだ」
「ああ、うんまあ、驚くよね。つうか、驚かせようと思って黙ってたんだけど」
藤也は少し笑いながらそう言って、あの後さ、と続ける。
「兄貴が死んだとき、うちに来た紫乃さんが言ったんだ。家族でこっちに越してこないかって。もうここらじゃもう仕事もないでしょうって」
「紫乃さんに?」
「紫乃さん、俺のおばさんなんだ。親父のほうの。親父も地元で仕事なくしてたから、それでここに越してきたってわけ」
「なるほど……いや、やっぱおかしいだろ」
ユキは一瞬納得しかけたけれど、首を振った。
「なんでおまえ、免許なんて持ってるんだよ?まさか無免……」
「まさか。ちゃんと持ってますって」
藤也は財布から、昨日の免許証を取り出して見せた。
「え……?」
ユキは唖然としている。免許証と、藤也の顔を交互に見る。
「じつはサバ読んでました。黙っててゴメンね?」
「は?」
「留年してんだよ、1年」
藤也は諦めたように白状した。
「俺、こう見えて中学のとき病弱少年でさあ。入院が長引いてほとんど学校行けなかったときがあって、中2を2回やってるんだ」
「病弱?」
ユキが疑わしそうに訊き返す。無理もない。今の藤也は背が高くて筋肉質で、どこをどう見ても病弱少年には見えない。
「鍛えたんだよ。病気が治って、2度と再発させるかって、必死で」
「じゃ、高1のときは、もう出来上がってたってことか」
「頑張りすぎちゃって、逆に由貴とか超ひょろく見えたもんなー」
「……ほっとけ」
「で、その様子だとうまくいったかんじ?」
藤也がにやりと笑って、ユキに詰め寄る。
「は?なにが……」
「まあまあ、照れなくていいって」
「照れてない!」
顔を赤くするユキの反応を、藤也は完全におもしろがっている。
私は2人から少し離れて、目線を遠くに投げかける。
山のふもとから続く道は緩やかな下り坂になっていて、街並みがよく見渡せた。民家、公園、路地で遊ぶ子どもたちや遠くに聴こえる犬の鳴き声。
ほんとうに世界の終わりなんてあるんだろうかと思えるくらい、平和で和やかな景色だった。灰色の空はすこし長すぎた曇り空で、明日になれば太陽だって、ふらっと思い出したように顔を出すかもしれない。
でも――
私は手のひらを見つめる。
まだ、人の身体が灰に変わる瞬間の感触が、鮮明に残っている。さらりとした細かい砂のような、それが人の一部だったなんて信じられないような。
でも、私はこの目で見て、この手に触れた。この記憶が、残酷な現実を物語っていた。
人は本当に、あっという間に、人が灰に変わってしまうんだ。
頭ではわかっていたはずなのに、心で受けとめるのは難しかった。いつ誰がそうなるかなんてわからない。いい人も悪い人も、頭がよくても悪くても、お金持ちでも貧乏でも、そんなのはもう何にも関係ない。
ここにいる私も、ユキも、藤也も、明日にはもう、いなくなってしまうかもしれない。
怖い、と思った。とてつもなく、怖くなった。大切なものを、どんどん失っていくことが。
「――イノリ」
ふいに名前を呼ばれて、はっと顔をあげる。
「大丈夫?顔色悪いけど」
「あ……」
大丈夫、そう言いたかったけど、言葉が出てこなかった。これじゃ余計に気を遣わせてしまうって、わかっているのに……。
「なあ、今から風呂いかね?」
藤也がおもむろにそう言った。
「は?」
「えっ?」
私とユキがキョトンとして藤也を見る。
「銭湯だよ。近くにいいとこがあんの」
「唐突だな」
ユキが呆れたように言った。
「で、どうする?行くの、行かないの?」
「行くっ!」
私は思わず叫んだ。
「え?」
ユキが驚いて私を見る。
「私、銭湯って行ったことないんだ。行ってみたかったの」
「まじ?それも珍しいね」
「まじです」
私はこれまで、自由にできることがほとんど何もなかった。
銭湯やプールは「不衛生だからダメ」で、漫画や流りの音楽を聴くのは「馬鹿になるからダメ」で、学校帰りの寄り道は「勉強の妨げになるからダメ」で。そういえば夏らしいことも全然してこなかった。海も川も花火もお祭りも、本当はしたいことがたくさんあったのに。何もかも親や学校に決められた範囲で、とても狭い世界で私は生きてきたんだと思う。
「じゃあ、今日が初体験てことで」
藤也がぱしっと私の腕をとる。
「調子にのるな」
ユキがぐいっとその手を引き離す。
「……あははっ」
私は思わず笑ってしまった。
元気づけようとしてくれているのがわかった。私が落ち込んでいたから。
「ありがとう」
と小さくつぶやいて、オンボロの軽トラに乗り込んだ。ガタゴト音を立てるトラックに揺られて、坂を下っていく。
*
銭湯には誰もいなかった。いや、正確にいえば、やたらガタイのいい強面のおじさんと、紫乃と同年代くらいのおばさん3人組がいた。でも、お店の人は誰もいなかった。
おじさんもおばさんたちも、藤也を見かけるとみな親しげに笑いかけてくる。
「よう藤也」
「藤也くんこんにちは。あらあ今日はお友達も一緒?」
「そうなんですよ。地元の友達と、その彼女」
藤也がさらっととんでもないことを言う。
「か、彼女……?」
「おい勝手なこと言うな」
ユキが腕にパンチを食らわせる。
私は、赤くなった顔を見られたくなくて俯いた。
彼らが暖簾の奥に入って行った後で、
「随分馴染んでるんだな」
とユキが意外そうに言った。
「ここには小さい頃からよく遊びにきてたから。知り合いは多いよ。第2の地元みたいなもんだ」
そっか、とひそかに納得する。藤也は昨日来たばかりの私たちと違って、まるでずっと前からここに住んでいるみたいに、この土地に馴染んでいた。少しも違和感がなかった。
藤也は懐かしそうに続けた。
「ここな、80歳のじいさんがずっと1人でやってたんだけど、いなくなっちゃって。それでボランティアの人が交代で管理してるんだ」
さっきのガタイのいいおじさんもその1人で、自分もお風呂に入るついでにやって来て、ボイラーの調節などもしているのだと言う。
「俺も呼ばれれば掃除とかするし。みんなで守ってるんだ。ずっと昔からここにあって、町の人にとってないと困る場所だから」
藤也はどこか誇らしげにそう言った。
みんなで守ってる。昨日も聞いた言葉だった。行き場をなくした人たちがこの町に寄り添い、助け合いながら生きているんだ。
男湯と女湯に分かれた暖簾をくぐると、それほど広くはない脱衣所があった。棚のひとつひとつに籠があり、中にタオルがたたんで置いてあった。さっきのおばさんたちのよく通る話し声が、ガラスの扉ごしに浴場のほうから聞こえてくる。
私はなんだかどきどきしながら服を脱ぎ、扉を開けた。
「わぁ……」
思わず、声をあげた。タイル張りの空間に、真ん中にどんと大きな浴槽があって、隣にその半分くらいの浴槽が並んでいる。壁際にはシャワーが並んでいて、そのひとつひとつに木桶が置いてある。そこはまさに、私のイメージ通りの「昔ながらの銭湯」だった。
浴場にもしひとりだったら、子どもみたいにはしゃぎ回っていたかもしれない。人がいるから我慢したけど、今にもお風呂に飛び込みたい気持ちでうずうずした。
頭と体を洗って、タオルで髪を巻きつけて、いざお風呂へ。と言いつつ、やっぱりはじめはおそるおそる、足の指先からお風呂につける。
「あつ――っ!」
予想以上の熱さに、思わず足を引っ込めた。
「お姉ちゃん、こっちは熱いほうだから、まずは隣の小さいほうで温まってから入るんだよ」
おばさんの1人が笑いながら教えてくれた。
「あ、ありがとうございます」
「初めて入るひとは大抵びっくりするんだよ」
「それくらい熱いのがいいんだよねえ」
そう言うおばさんたちは、熱々の大きいほうのお風呂に、平気な顔で肩まで浸かっている。
私は気を取り直して、小さいほうのお風呂にちゃぷんと浸かった。
ほんとだ。私はホッとする。こっちは入り慣れた家のお風呂の温度だった。
ふう、と息をつく。昨日今日と、立て続けにいろんなことがあって、身体が疲れていた。身体を休めると、安心するのか、内側に溜まった疲れがどっと疲れが外に出てくる。
白い湯気に浸かりながら、私はぼうっと頭を空っぽにする。もうそのまま眠ってしまいそうなほどの心地よさだった。
そのうちに、おばさんたちが笑い声をあげながら出て行った。私はぱちりと目を開ける。
無人になった大きいほうのお風呂からは、白い湯気がもうもうと茹っている。いかにも熱そうな感じが全面に出ている。
私は大きいほうに移動して、お湯につま先をつけてみた。
「熱くない……!」
いや、熱いけど、さっきみたいにとても入れないほどじゃない。いける、と思った私は、ひと思いにざぶんと体までお湯に浸かった。
ちょっと感動的な瞬間だった。すごく熱いのに気持ちがいい。激辛カレーを辛い辛いと言いつつも食べてしまうみたいな感じ。いや、食べたことはないんだけど。つまり、なんだか、ちょっと大人になった感じ。
慣れてくると、私はすいすいと浴槽を泳いでみた。ひとりだからできることだった。端から端まで泳いで、また戻ってきて、何度か繰り返しているうちに、扉がガラリと開いて私は動きをぴたりと止めた。
女の人と目があって気まずくなる。
「こんにちは……」
とりあえず挨拶してみると、
「ふふ、こんにちは」
ちょっと笑いながら返されて、余計に恥ずかしさ倍増だった。
お風呂から出ると、2人が壁際のベンチに座って話していた。
ユキの少しクセのある黒髪が、濡れて落ち着いていて、さっきとは違う雰囲気に見える。首にタオルをかけて、?がほんのり上気していて、なんだかーー
「あ、イノリ」
ユキが私に気づいて、笑顔を向ける。不意打ちの笑顔に、どきりとした。
立ち上がって、こっちに歩いてくる。
「はい、これ」
「え?」
「コーヒー牛乳だよ。銭湯の定番」
と、コーヒー牛乳の瓶を渡してくれる。
「俺はソーダ派だけどな。風呂上がりはさっぱりしたもん飲みたくね?」
と藤也がすかさず反論。
「邪道だ」
「ソーダを馬鹿にするのか」
なにやら言い合いをはじめた2人に、私はぷっと吹き出した。
「ありがとう」
と言って、コーヒー牛乳を受け取る。
ゴム製の蓋をキュポンと開けて瓶を傾ける。冷たくてとろりと甘めのコーヒー牛乳が、温まった体に心地よく流れる。
「甘くておいしいー」
「な?」
ユキが嬉しそうに笑った。
コーラを飲み干した藤也が、すっくと立ち上がった。空の瓶をケースに入れると、
「そんじゃ、俺ちと用事あるから帰るわ。あとは2人でごゆっくりー」
と、いきなり帰っていこうとする。
「え……待て待て!」
「なんだよ。俺がいないと不安ってかあ?可愛いやつめ」
藤也がにやりと笑ってユキの肩に手をかける。
「ま、しっかりやれよ」
「うるさい」
「ハイハイ、だからお邪魔虫は帰るって」
じゃあねー、とひらひら手を振りながら、本当にサクッと帰って行った。
「気まぐれな人だね……」
「ああいうやつなんだ」
はあ、とユキがため息をつく。
「美しきかな、青春……」
どこからかつぶやく声が聞こえて、2人してビクッとする。
「うわ!びっくりした」
とユキが振り向いて驚く。そこには、いつの間にか番台にゴルゴみたいないかつい顔のおじさんが腕を組んで座っていた。なんとも不釣り合いな取り合わせだ。
「すまない。驚かせるつもりはなかったんだが、つい若い頃を思い出してしまってな」
「はあ」
「美しい思い出は心に秘めておくもの。無駄に語りはしないがな」
あ、言わないんだ……。
あの、とユキがおじさんに声をかける。
「今日はありがとうございました。お風呂、気持ちよかったです。お金はーー」
と財布を出しかけたユキの手を、おじさんが止めた。
「俺だけがやってるわけではない。よって俺が代金をもらうわけにはいかん」
「でも……」
「人の厚意はありがたく受け取っておくものだぞ少年」
キリリと強い目力でそんなことを言われては、もう何も言えなくなる。そもそも財布も何も持っていない私は、払えるお金もないのだけれど。
「ありがとうございます」
2人で深々頭を下げて、銭湯を後にした。
*
『風見鶏』の庭先から、賑やかな声がした。パチパチと炭酸が弾けるみたいな音。それから空気が焼けるようなどこか懐かしい匂い。
なんの匂いだっけ?と思うのと、ユキが声をあげたのが同時だった。
「あ、花火やってる」
「花火?」
私は真っ先に、夜空にあがる打ち上げ花火を頭に浮かべて、空を見上げた。けれど頭上には、少し暗くなりかけた灰色の空があるだけだった。
「違う違う、手持ちのほうだよ」
ユキが笑いながら庭先を指差す。
あ、と思った。ほんとだ、花火だ。
私たちに気づいて、薄紫色の浴衣を着た紫乃さんがにこやかに手を振った。
「こっちおいで、今はじめたところなのよ」
私はちょっと戸惑いながら、「行こ」と言うユキに続いて、庭に入っていく。
見るとそこには、紫乃さんの他に今朝お店に来ていた美人なお母さんと小さな女の子、それから腰の曲がったおじいさんと、さっき銭湯にいたいかついおじさんもいた。美人な母娘といかついおじさんも浴衣姿だ。
みんなも私たちを見て、口々に挨拶をしてくれる。
「こんばんは」
と私たちも言った。
「また会ったな」
おじさんはやっぱりゴルゴみたいなキリリとした目つきと渋い声でそう言った。
「あら、あなた、この子たちと知り合いだったの?」
と美人なお母さんが言った。その背中に隠れるようにして、女の子がちらちらとこちらを見ている。
「ああ。銭湯で語り合った仲だ」
語り合ったっけ!?と内心びっくりしつつ、私は美人なお母さんにぺこりと頭を下げる。
「うちの主人がお世話になったみたいね」
彼女はくすりと微笑んで、みんなを紹介してくれた。
美人なお母さんが由美子さん、いかついおじさん改めいかついお父さんが清次さん、娘の4歳の女の子がみどりちゃん。
「田中じゃ」
とおじいさんがよりいっそう背中を丸めて花火をパチパチと散らせながら言った。
「そうだ祈ちゃん」
と紫乃さんに呼ばれて振り向く。
「せっかくだから浴衣着ない?娘のがあるのよ」
「えっ、いいんですか?」
「いいのいいの。夏は花火と浴衣でしょ」
そういうわけで、お店の奥に連れられて由美子さんに着付けをしてもらうことになった。
「私ね、ここの隣の町で、美容師をしてたのよ。それでたまにだけど、着付けもしていたの」
由美子さんは浴衣の丈を調節しながら、そう言った。淡いピンクの地に、赤と白の花が描かれた可愛らしい浴衣だった。
「そうなんですか」
と私はまだ少し緊張しながら答える。
「着物って、何かの節目のときに着るものでしょう。だから少しでも、誰かの人生の記念日のお手伝いをさせてもらえるのが嬉しかったわ」
由美子さんは懐かしそうに話しながら、私の後ろにまわってキュッキュッと浴衣の形を整える。
「浴衣も同じ。誰かの特別な日を、応援したいと思うのよ」
由美子さんは、ぽん、と私の肩に手を置いて、にっこりと微笑んだ。
「特別な日、ですか?」
「ええ、そうよ」
特別な日。なんだかその言葉は、神秘的な響きを持っていた。
由美子さんが、私の髪にそっと触れる。
「髪、あげてもいいかしら?」
「はい、お願いします」
私の長い髪を、由美子さんは器用にアップにまとめて、きらきらと金色に光る髪留めをつけてくれた。細い肢の先に水滴みたいな小さな花がついている。
鏡の前に立って、わあ、と声をあげる。
「どうかしら?」
「すごいです……」
私は感動しながら言った。鏡に映る自分は、まるで自分じゃないみたいだった。いつもと違う格好や髪型をするだけで、こんなにも違う自分になれるんだ。
「祈ちゃんにとって今日が特別な日になるように、応援してる」
由美子さんはにっこりと美しく微笑んでそう言った。
それから、内緒話を打ち明けるみたいに、ひそりと付け足す。
「花火ね、みどりが祈ちゃんたちと遊びたいって持ってきたの。仲良くしてあげてね」
と、しっかり母の顔も見せた。
*
一度だけ、私は手持ち花火をしたことがあった。それはこんなふうに賑やかで楽しげなものではなく、静かで少し切なげな花火だった。夜でさえなく、灰色の空の下、5月の真昼の屋上だった。
いつものように屋上でお弁当を食べた後、サユミがおもむろに鞄から取り出したのは、花火だった。大きなものじゃなくて、小さめのビニール袋に入った線香花火だ。線香花火は5本入っていた。
「これ、やらない?」
まるでおやつをあげるみたいな気軽さで、サユミは線香花火を私に差し出した。サユミの奇行には慣れていたものの、さすがにこれにはびっくりしてしまった。
『ええ?学校で火は使っちゃダメだよ』
『学校なんてなくしちゃおうよ、これで』
サユミはケラケラと笑った。
線香花火ではさすがに火事にはならないだろう、と思っても、悪いこと、という意識は拭えない。
『やっぱりやめようよ。せめて外でやろう?』
私が止ても、サユミは知らん顔をしている。
『高い場所でやりたいんだ。私たちが登れる高い場所なんて、しれてるじゃん?』
サユミが何をしたいのか、私にはよくわからなかった。
「いいよ、嫌ならひとりでやるし」
サユミがふいっと拗ねてしまうから、私はつい「わかった、わかった」と言ってしまった。
いつも何かに縛られていた私には、校則なんて守らずにしたいことをする、そんなサユミの自由さが眩しかったんだ。
サユミはマッチを擦って、自分のと私の線香花火に火をつけた。真昼の屋上に、パチパチと線香花火が小さく弾けた。夜の花火もやったことはないけど、昼の花火はなんだか不思議な感じがした。
『線香花火の火が長持ちしたほうが、願いが叶うんだって』
と、サユミが言った。
『サユミは何をお願いするの?』
『うーん。生きてるうちに、恋ができますように!』
あはは、と私は笑った。危うく花火が落ちそうになって慌てた。
『祈のお願いは?』
『私は……生きてるうちに、ユキに会えますように』
『会うだけ?会ってどうするの?』
『……わかんない
『なんだそりゃ』
サユミが呆れたように言った。
『ま、でも祈らしいかもね』
真昼の線香花火はパチパチと静かに控えめに燃え続けた。小さくなったり大きくなったり、ときどき消えそうになったかと思ったらまたぽうっと火がついたり。
こんなに細くて小さいのに、すごい。まるで生きているみたいに、その細くて小さな火花は様々に形を変え、そのたびに私はいつ落ちるのかはらはらした。
長持ちしたのは、私のほうだった。
『やったあ!』
私は思わず飛び上がった。
『あー悔しい!』
『もう1回やる?』
『やらない、一発勝負だから』
『なんか、男気あるね』
『自力で彼氏つくってやるもんね!』
立ち上がって叫ぶサユミがおかしくて、私はあははと笑った。
恋愛禁止なんて古くさい学校の規則も、世界の終わりも関係なく、サユミは恋がしたいと言った。あたしはしたいことをするの。ただそれだけ。
サユミが引っ越していったのは、それからすぐのことだった。
――ねえ、サユミ。
私たちの願い、どっちも叶ったね。
私はユキに会えたし、サユミは好きな人ができた。
好きな人がそばにいて、この気持ちを知ることができて、幸せだよ。サユミの手紙には、そう書いてあった。
そうかもしれない。
私の願いは、桜を見ることよりなにより1番は、「いつかユキに会いたい」それだけだった。
いちばんの願い事が叶ったのだから、もう充分なのかもしれない。
これ以上何かを望むのは、ぜいたくなことなのかもしれない。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
幼い声にはっとして見ると、みどりちゃんが心配そうに私を見上げて立っていた。
「ううん、どうもしないよ」
私は慌てて笑顔をつくってそう言った。でも、みどりちゃんは納得いかなそうな顔をする。
「でも、お姉ちゃん、悲しそうな顔してた」
大きなふたつの瞳が、私をじっと見つめる。心の奥を覗かれてしまいそうな気がして、どきりとした。
「そんなことないよ。楽しいよ。みどりちゃん、一緒に花火やろうか」
「うん。じゃあ、これあげる」
みどりちゃんが持っていた花火を、少し恥ずかしそうに渡してくれた。
「ありがとう」
私は受け取って、みどりちゃんと一緒にろうそくから花火に火をつける。
「わあっ!?」
いきなり先端からロケットみたいに火花が吹き出して、びっくりして思わず花火を落としてしまった。前にサユミとやった線香花火とは、全然レベルが違う。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「う、うん……」
うう、4歳児に心配されるなんて、情けない……。
「イノリ、ビビりすぎ」
ユキが笑いながら、落ちた花火を拾ってくれる。消えかけていた火花が、また息を吹き返したように強くなって、私は思わず後ずさりする。
「このお姉ちゃん、花火やったことないんだってさ」
ユキが笑いながら言うと、みどりちゃんが珍しいものを見るみたいに目を丸くした。
「ほんとに?ヘンなのー」
「なー、変だよな」
「あはは、お姉ちゃんヘンーっ」
「ほっといてください……」
私はがっくり項垂れた。
さっきまでお母さんの背中に隠れてたみどりちゃんは、もうすっかり打ち解けている様子。小さい子ってすごいなあ、と感心してしまう。
「こっちのほうがやりやすいかも」
とユキが新しいのを持ってきて差し出す。
「あ、ありがとう」
おそるおそる火をつけてみると、
「わ、かわいい……!」
大きめの線香花火みたいに、先っぽでパチパチと火花が弾けた。さっきのロケットみたいな勢いがない。これならできそう。
「でしょ」
そう言って笑うユキの花火からは、シュババババと勢いのある花火が散っている。私には絶対にできそうにないやつだ。
「みてみて、色が変わるよ!」
「ほんとだ、すごい!」
私とみどりちゃんは一緒になってはしゃいだ。
「精神年齢一緒だな」
とユキが笑った。
紫乃さんや由美子さんや清次さんも笑って、田中さんはいつの間にか縁側で舟を漕ぎはじめていた。
あたりがだんだん暗くなるにつれて、花火の光が強くなっていく。
暑くもない8月の夜。こんなに普通じゃなくなった世界でも、浴衣を着て花火をして、精一杯夏を楽しもうとしている人たち。
なんて、きれいなんだろう、と思った。
こんなにきれいな世界を、私は今まで知らなかった。できることなら、いつまでもここにいたい、と。
「じゃあ、最後に線香花火いきますか」
紫乃さんが言って、みんなに1本ずつ線香花火を配った。
「最後まで残った人は、うちの特性デザートをサービスします!」
「わーい!」
みどりちゃんがぴょんぴょん飛び跳ねる。
「なんじゃと」
こくこくと舟を漕いでいた田中さんが、突然むくりと起き上がった。でも上がったのは顔だけで、背中はやっぱり曲がってる。
「勝負事で負けるわけにはいかん」
清次さんが渋い声で言って、
「あなた、大人気ないわよ」
と由美子さんがたしなめる。
「手がぶれないようにすると長持ちするよ」
とユキが小声で教えてくれて、
「う、うん」
私はその息がかかりそうな距離にドキドキしていた。
薄い暗闇の中で、みんなの線香花火に火がついた。ぽうっと控えめにランプを照らすように火の玉がつき、少ししてパチパチと小さな火花が散りはじめた。
小さくなったり、大きくなったり。消えかけたり、またついたり。昼と夜では、線香花火の色は全然違った。昼間は白く、夜は鮮やかな黄色だった。
きれい。私は夢見心地でそう思った。
「ああっ!?」
その瞬間に、ぽとり、と火の玉が力尽きて地面に落ちてしまった。
「ああーデザート……」
がっかりする私を見てユキが笑い、その拍子にユキの線香花火も落ちた。
「ああー……」
最後に残ったのはみどりちゃんと田中さん。
「みどりちゃんがんばれ!」
「がんばれええええみどりいいいい!」
清次さんの過剰な応援にみどりちゃんがビクッとして、小さな灯火があっけなく地面に落ちた。
「残念だったなあみどり……!」
「ていうかパパのせいなんだけど」
みどりちゃんの冷ややかな言葉に固まる清次さん。
田中さんは、ふぇっふぇっ、と歯の隙間から漏れるような笑い方をした。
「はいはい、歯抜けのおじいさんにデザートひとりじめさせるのはもったいないので、全員にサービスしますよ」
といつの間に用意していたのか、紫乃さんがお盆に人数分のアイスを乗せて持ってきてくれた。透明のガラス皿に入ったバニラアイスに、真っ赤なさくらんぼとウエハースが添えてある。
「アイスだ!やったあ!」
みどりちゃんが飛び跳ねた。
「よかったなあ、みどりい……!」
清次さんが目に涙を浮かべて言う。渋い見た目のわりに感情豊かな人だ。
「いただきまーすっ」
バニラアイスはさっぱりとしたミルク風味で、ウエハースにちょっとだけ乗せて食べるとぜいたくな感じがした。
「おいしいね」
と私は笑ってユキに言った。ユキも笑ってくれるかと思ったけど、
「……うん、おいしい」
と言葉とは裏腹に、浮かない顔を浮かべた。
「どうしたの?」
あのさ、とユキが少し声を強めて、私を見た。
「ちょっと、話があるんだけど、いいかな」
「え?うん……」
話ってなに?と尋ねる前に、
「後で、その辺散歩しよう」
とぎこちない笑顔を浮かべてユキが言った。
アイスを食べ終わって片付けをしてから、紫乃さんにことわって、私たちは夜の散歩に出かけた。
目の前に、小川が流れている。私たちは川沿いをゆっくりと歩いた。賑やかなときは聴こえないけど、静かになると、さらさらと川の流れる音がよく聴こえた。
「イノリ」
ふいに、ユキが立ち止まって言った。
「俺、もう家には帰らない覚悟で、ここに来たんだ」
私は目を開く。ユキの声は真剣だった。
「イノリが好きだから。ずっと前から、好きだったから」
思わず、息が止まった。びっくりして。嬉しくて。信じられなくて。
――ずっと前から、好きだったから。
それは、私がいちばん欲しかった言葉。
どうして、そんなこと言うの。そんな、嬉しい言葉をくれるの。
「…………っ」
言葉よりも先に、気持ちがあふれて、涙が流れた。
「えっ、イノリ……?」
うろたえるユキに、私は余計に涙が止まらなくなる。
これ以上ないくらい、嬉しいのに。
それなのに、私は――
「ごめんね……っ」
泣きじゃくりながら、そう言った。
だって、想像もしなかったんだ。
私がずっと、いちばん欲しかった言葉を、君がくれるだなんて。
そうなったらいいな、とは何度も思った。数えきれないくらい夢にも見た。
でも今、痛いほど思い知る。
私は本当には、何もわかっていなかったんだって。
夢が現実になったとき、自分がどんな気持ちなるのか――、
全然、わかっていなかったんだ。