灰色の世界で、君に恋をする
◯
コンコンコン、と部屋のドアがノックされる。そのあとすぐ、ドアの向こうから優しい声が聞こえる。
「祈ちゃん、大丈夫?」
ああ、紫乃さんにも、心配かけてしまっている。部屋に閉じこもったりして、迷惑かけてしまっている。
それがわかるのに、私は起き上がることができない。
「紫乃さん、ごめんなさい……」
昨日散々泣いたのに、ふと油断するとまた、涙がこぼれそうになる。自分の弱さが嫌になる。
「謝らなくてもいいのよ」
でも、と紫乃さんは言った。それから、カチャリと静かにドアが開いた。
「その代わり、勝手に入らせてもらうけどね」
紫乃さんが入ってきて、私はようやく重たい体を起こした。
「1人で考えるより、話しちゃったほうが楽なときもあるよ。もちろん、無理にとは言わないけどね」
言いながら、はいどうぞ、と温かいココアを渡される。これでもう、話さないわけにはいかなくなる。
完全に紫乃さんの手の中に収まっているなと思いつつ、でもその優しさに救われたような気持ちになった。
「いただきます」
おいしい。頭の中でぐちゃぐちゃに絡まっていた思考が、ゆっくりと解けていくようだ。紫乃さんの温かいココアには、それくらいリラックス効果があった。
「……私、昨日、自分の気持ちとは正反対のこと、言っちゃったんです」
『ごめん』
昨日、私はユキの前で、そう言って泣きじゃくった。
好きだと言ってもらえて嬉しかった。それは間違いなかった。信じられない気持ちと、嬉しい気持ち。だけど、私の中に生まれた感情は、それだけじゃなかった。
――怖い、と思ってしまった。
好きな人と思いが通じて、そんなふうに思うだなんて、想像もしていなかった。
願いが叶った瞬間に、失うことを考えるなんて。
これ以上、好きになるのが怖かった。
今まで私たちには距離があった。会いたいと思っても会えない、お互いの居場所を知らないからその距離は途方もなくて、不確定要素だらけで。
だから私たちはきっと、はじめからあんなにも自然に話すことができた。
だけど、今は違う。すぐそばにユキがいて、声を聞けて、手を伸ばせば触れることもできる。
これ以上近づいたら、きっと、私は、私でいられなくなる。
病気のことを知って以来、ぎりぎりのところで保っていた心の均衡が、バラバラに砕けてしまいそうな、どうしようもない恐怖。
「ほら、言ってるそばから、あんなに走ってきた」
私は窓の外に視線を落とし、はっと目を開く。
ユキがいた。走るユキの姿に、私は胸が詰まった。またしても泣きだしそうになりながら、私はもう一度紫乃さんを見た。
「あの……」
私が言うことがすでにわかっていたように、紫乃さんはにっこり笑って、ぽん、と背中を押した。
「行ってきな。今度はちゃんと、本当の気持ちを伝えておいで」
「はい」
私は大きく頷いて、部屋を後にした。
「イノリ……っ!」
お店の前で、私たちは今日初めて顔を合わせた。
「ユキ……」
私は気まずさを感じつつ、でもそれじゃいけないと決心する。
「あのさ……」
「あの……っ」
声が重なって、思わず言葉を呑み込む。それから、ユキがふっと笑った。
「なんかデジャヴだな」
「だね」
私もつられて、少し笑った。
「あのさ、聞きたいことがあるんだ」
息を切らしながら、ユキが言った。
「……うん、私も」
私は頷いて、すう、と息を吸った。
「あのね。その前に、もう一度行きたいところがあるの」
*
町の片隅の忘れ去られたような雑木の奥にある小さな教会。
ひっそりと静かで、ここはひょっとすると私たちみたいな不器用な2人のためにあるのかもしれない、なんて勝手なことを私は思う。
白い壁に、シンプルな十字架。鮮やかな2つの青い大きなステンドグラスには十字架に祈りを捧げるような人々の姿が描かれている。
鏡合わせのように並んだ美しいステンドグラスを、私は見上げた。
「何かに困ったときや道を見失ったときは、祈りなさいって、小さいころ、お母さんがそう言ってたの」
まだ、私が言葉をはっきりと理解していなかったころ。でも、その言葉はなんとなく今も頭に残っている。その声は今のようにヒステリックな声じゃなくて、とても優しく耳元で響いていたことも。
『どうかこの子が幸せになりますようにって、そういう祈りを込めて、この名前をつけたの。祈ることは、幸せを求めることだから。その気持ちはきっと、あなたを助けてくれるはずだなら』
ーー幸せを求めること。
そうだ。私は、幸せを求めて家を出た。世界が終わる前に、どうしても会いたい人がいた。
その人が私を好きだと言ってくれた。信じられなかった。こんなに嬉しいことがあっていいのだろうかと。
それなのに私は怯えてしまった。幸せになることを躊躇ってしまった。
「ユキ。私ね、言ってなかったことがあるの。驚かせちゃうと思うけど……」
ユキはあんなにもまっすぐな気持ちを伝えてくれたのに、私はまだ何も本当のことを言えていない。
本当の自分を、まだ見せていない。
「うん」
とユキは覚悟したように言った。
「どんなことでも聞くから、教えて」
私は頷いて、頭に手を触れた。そして、それを外した。
ユキが目を見開く。
「イノリ、それ……」
「うん、偽物。ウイッグなの」
私は言った。
ユキは唖然として私を見ている。ウイッグをとった、ショートよりも髪が短い私の頭を。
家を出る前、お姉ちゃんがくれた長い黒髪のウイッグはさらさらで本物の髪の毛みたいで、とてもぱっと見じゃ偽物なんてわからない。
だけど、これは私の髪じゃない。長かった私の髪は、あの日に全部、抜け落ちてしまった。
「……私ね、病気なんだって」
そう言うだけで精一杯だった。ユキの反応が怖くて、目を見られなかった。
コンコンコン、と部屋のドアがノックされる。そのあとすぐ、ドアの向こうから優しい声が聞こえる。
「祈ちゃん、大丈夫?」
ああ、紫乃さんにも、心配かけてしまっている。部屋に閉じこもったりして、迷惑かけてしまっている。
それがわかるのに、私は起き上がることができない。
「紫乃さん、ごめんなさい……」
昨日散々泣いたのに、ふと油断するとまた、涙がこぼれそうになる。自分の弱さが嫌になる。
「謝らなくてもいいのよ」
でも、と紫乃さんは言った。それから、カチャリと静かにドアが開いた。
「その代わり、勝手に入らせてもらうけどね」
紫乃さんが入ってきて、私はようやく重たい体を起こした。
「1人で考えるより、話しちゃったほうが楽なときもあるよ。もちろん、無理にとは言わないけどね」
言いながら、はいどうぞ、と温かいココアを渡される。これでもう、話さないわけにはいかなくなる。
完全に紫乃さんの手の中に収まっているなと思いつつ、でもその優しさに救われたような気持ちになった。
「いただきます」
おいしい。頭の中でぐちゃぐちゃに絡まっていた思考が、ゆっくりと解けていくようだ。紫乃さんの温かいココアには、それくらいリラックス効果があった。
「……私、昨日、自分の気持ちとは正反対のこと、言っちゃったんです」
『ごめん』
昨日、私はユキの前で、そう言って泣きじゃくった。
好きだと言ってもらえて嬉しかった。それは間違いなかった。信じられない気持ちと、嬉しい気持ち。だけど、私の中に生まれた感情は、それだけじゃなかった。
――怖い、と思ってしまった。
好きな人と思いが通じて、そんなふうに思うだなんて、想像もしていなかった。
願いが叶った瞬間に、失うことを考えるなんて。
これ以上、好きになるのが怖かった。
今まで私たちには距離があった。会いたいと思っても会えない、お互いの居場所を知らないからその距離は途方もなくて、不確定要素だらけで。
だから私たちはきっと、はじめからあんなにも自然に話すことができた。
だけど、今は違う。すぐそばにユキがいて、声を聞けて、手を伸ばせば触れることもできる。
これ以上近づいたら、きっと、私は、私でいられなくなる。
病気のことを知って以来、ぎりぎりのところで保っていた心の均衡が、バラバラに砕けてしまいそうな、どうしようもない恐怖。
「ほら、言ってるそばから、あんなに走ってきた」
私は窓の外に視線を落とし、はっと目を開く。
ユキがいた。走るユキの姿に、私は胸が詰まった。またしても泣きだしそうになりながら、私はもう一度紫乃さんを見た。
「あの……」
私が言うことがすでにわかっていたように、紫乃さんはにっこり笑って、ぽん、と背中を押した。
「行ってきな。今度はちゃんと、本当の気持ちを伝えておいで」
「はい」
私は大きく頷いて、部屋を後にした。
「イノリ……っ!」
お店の前で、私たちは今日初めて顔を合わせた。
「ユキ……」
私は気まずさを感じつつ、でもそれじゃいけないと決心する。
「あのさ……」
「あの……っ」
声が重なって、思わず言葉を呑み込む。それから、ユキがふっと笑った。
「なんかデジャヴだな」
「だね」
私もつられて、少し笑った。
「あのさ、聞きたいことがあるんだ」
息を切らしながら、ユキが言った。
「……うん、私も」
私は頷いて、すう、と息を吸った。
「あのね。その前に、もう一度行きたいところがあるの」
*
町の片隅の忘れ去られたような雑木の奥にある小さな教会。
ひっそりと静かで、ここはひょっとすると私たちみたいな不器用な2人のためにあるのかもしれない、なんて勝手なことを私は思う。
白い壁に、シンプルな十字架。鮮やかな2つの青い大きなステンドグラスには十字架に祈りを捧げるような人々の姿が描かれている。
鏡合わせのように並んだ美しいステンドグラスを、私は見上げた。
「何かに困ったときや道を見失ったときは、祈りなさいって、小さいころ、お母さんがそう言ってたの」
まだ、私が言葉をはっきりと理解していなかったころ。でも、その言葉はなんとなく今も頭に残っている。その声は今のようにヒステリックな声じゃなくて、とても優しく耳元で響いていたことも。
『どうかこの子が幸せになりますようにって、そういう祈りを込めて、この名前をつけたの。祈ることは、幸せを求めることだから。その気持ちはきっと、あなたを助けてくれるはずだなら』
ーー幸せを求めること。
そうだ。私は、幸せを求めて家を出た。世界が終わる前に、どうしても会いたい人がいた。
その人が私を好きだと言ってくれた。信じられなかった。こんなに嬉しいことがあっていいのだろうかと。
それなのに私は怯えてしまった。幸せになることを躊躇ってしまった。
「ユキ。私ね、言ってなかったことがあるの。驚かせちゃうと思うけど……」
ユキはあんなにもまっすぐな気持ちを伝えてくれたのに、私はまだ何も本当のことを言えていない。
本当の自分を、まだ見せていない。
「うん」
とユキは覚悟したように言った。
「どんなことでも聞くから、教えて」
私は頷いて、頭に手を触れた。そして、それを外した。
ユキが目を見開く。
「イノリ、それ……」
「うん、偽物。ウイッグなの」
私は言った。
ユキは唖然として私を見ている。ウイッグをとった、ショートよりも髪が短い私の頭を。
家を出る前、お姉ちゃんがくれた長い黒髪のウイッグはさらさらで本物の髪の毛みたいで、とてもぱっと見じゃ偽物なんてわからない。
だけど、これは私の髪じゃない。長かった私の髪は、あの日に全部、抜け落ちてしまった。
「……私ね、病気なんだって」
そう言うだけで精一杯だった。ユキの反応が怖くて、目を見られなかった。