灰色の世界で、君に恋をする
*
7月のはじめ。あの霧の日以降、世界は急速に終わりに向かって近づいていった。人口は激減し、学校は閉鎖され、電波は途切れ、テレビも電話も繋がらなくなった。相変わらず太陽は見えず、重たい灰色の空が広がっていた。
ユキと連絡が取れなくなって、2週間が経った頃だった。
「あんた、やばいよ。鏡見てみなよ」
お姉ちゃんにそう言われて、自分の異変に気づいた。
鏡を見て、愕然とした。それはいつも見ている自分ではなかった。顔はやせ細り、顔色は青白く、頭に少し触れただけで、髪の毛が束になってぱらぱらと抜け落ちた。
数日後には、長かった私の髪は、ほとんどすべてなくなってしまっていた。
ストレスで、人はこんなふうになってしまうのか。
だけど、私の中で起こった異変は、そんなわかりやすいものだけじゃなかった。
私のあまりの変わりようを心配したお母さんは、知り合いのお医者さんのところに私を連れて行った。病院は驚くほど混んでいて、待っている人たちは不安げな表情をしていた。医者も看護師もみんな慌ただしく動きまわって疲れているようだった。
やがて私の名前が呼ばれ、お母さんと一緒に診察室に入った。
問診、触診、レントゲン。ごく普通に診察を終えた医者は、貼りつけたレントゲン写真を睨みながら、私に言った。
『櫻田さん、あなたは、灰害になっています』
『え……?』
予想もしない言葉だった。
灰害とは、人を一瞬にして灰にしてしまう恐ろしいものだった。変化は体内で少しずつ起こり、でも外見の変化はほとんどない。実際に灰害にあった人を私は見たことがなかったけれど、人は最期のその瞬間になるまで、自分が灰害にかかっていることなど気づかないはずだった。
だけど私の身に起こった変化は、どう考えても普通じゃなかった。
『そんな………』
『ただしあなたは、少し特殊なケースではありますが』
愕然とする私にわ先生は言った。
『特殊ってどういうことですか。うちの娘がおかしいって言うんですか?』
お母さんが、先生を睨みつけて声を荒げた。
先生は困った様子で、いえ、と首を振った。
『というよりも、進行速度がとてもゆっくりなんです』
一般的に、灰はいったん人体に入り込むと、そこからどんどん吸い込むようにして、内部に灰を溜め込むという。それによって内臓や血管や皮膚が少しずつ弱っていき、機能しなくなり、やがては全て灰に変わってしまう。
その期間は、長くて3日。多くの場合、見た目の変化に気づく前ーーあるいは気づいた瞬間に、人は灰に変わる。
だけど私の場合は、その速度が限りなく緩やかなのだそうだ。人よりもゆっくりしているから、気づいてしまう。自分の中で起こっている変化に、皮膚の弱りに、そして、髪を失った。
『正直に言って、私にもはっきりとした原因や、進行速度はわかりません。有効な薬もなければ、あとどれくらいということも言えません。ですが、灰害は確実に進行します。止まることはありません』
私は、ぼうっと先生の話を聞いていた。ショックだったけれど、納得したところもあった。自分の中で起こっている変化は、自分がいちばんわかっていた。だけど、まるでそんなことを予想していなかったお母さんは、今にも倒れそうに青ざめていた。病気の私のほうが、大丈夫?と思ってしまったくらいだ。
診察室を出て、お母さんが震える手で私の肩を抱いた。
『大丈夫よ。あなたは何も心配しなくていいんだから』
お母さんはそう言った。私にというよりも、自分に言い聞かせるように、何度も何度も繰り返した。
大丈夫だなんて、私はとても思えなかった。世界がこんなふうになって、自分だけが助かるなんて思っていたわけじゃなかった。
私の体は今この瞬間も、少しずつ灰に侵食されている。止まることはない。怖いというよりも、悲しかった。すごく悲しいはずなのに、涙さえ枯れてしまったみたいに、泣くこともできなかった。
死を意識した途端、ユキに会いたい、と思った。強く、切実に、それだけを求めた。それが私の最後の、たったひとつの願いだった。
ーーお願いします。お願いします。お願いします。
私は毎日祈った。人のいなくなった学校の屋上で、宇宙と通信するみたいに灰色の空に携帯をかかげて、ほんの一瞬でも、電波が入ることを願った。何度も何度もメッセージを送って、だけどその度にエラーになった。
それでも私は、諦めるわけにはいかなかった。ユキと繋がる手段は、これしかないんだ。
側から見たら完全に変な人だな、と思った。自分がこんなことをするなんて思わなかった。だけどもう変だとか普通だとか、どうだってよかった。私もこの世界もとっくに普通じゃなくなってるんだから。
ーーねえ、ユキ。
私も私のまわりの環境も、どんどん変わっていくよ。
ユキはどうしてる?
君に会いたい。会って話がしたい。毎日くだらないメッセージを送りあって笑ってたみたいに、君の隣で。
ーー生きてるうちに、ユキに会いたいな。
春、サユミと昼間の屋上で、線香花火をしながらお願いをした。サユミからもらった「月の石」は、私の腕で揺れている。
あのときよりも、ずっと強く想う。
どうか、どうか。願いを叶えてください。
『会いたい。』
ーーユキに会いたい。
何度送ったかわからないメッセージ。その度にエラーになって、がっかりして、
でも、1度だけ、ならなかった。
「送れた……っ!」
私は飛び上がった。エラーにならなかった。
ユキのところに、届いたんだ。
でも、一瞬だけだった。すぐにまた繋がらなくなって、ユキが返事を送ってくれたとしても受けとれない。
まだだ、と思った。まだ諦めちゃだめだ。1度繋がったんだから、また、繋がる瞬間がどこかにあるかもしれない。
そしてーー
もう一度、その瞬間が訪れた。
『俺』『も』と文字がノイズの混じった音みたいに途切れ途切れに届いた。
繋がった言葉は、
『俺も会いたい。』
私は顔を覆った。
奇跡みたいだと思った。いや、奇跡が起こったんだ。
私の想いが届いたこと。君も同じ気持ちでいてくれたこと。
だけど、戸惑いもあった。ほとんど髪を失った、自分ですらまだ受け入れられないこの姿で、ユキに会うことに。
こんなふうになった私を、君はどう思うだろう。会ったこともないのに、そんなことが心配だった。
家に帰ると、お姉ちゃんがピアノを弾いていた。お姉ちゃんがよく弾いている曲『月光』だった。
「お姉ちゃん、その曲好きだよね」
「これを弾いていると落ち着くの」
とお姉ちゃんは言った。
ピアノを弾いていなくても、お姉ちゃんはいつだって落ち着いて見えるけど、そうじゃないんだろうか。
「あんた、家出てくの?」
ふいにそう言われて、どきりとした。
「えっ、なんで……?」
「そんな顔してたから」
お姉ちゃんは、私の顔をまっすぐに見つめてそう言った。
私は思わず自分の顔に触れた。どんな顔してたんだろう。
「誰か、会いたい人がいるの?」
お姉ちゃんに真顔で問われて、私は戸惑いつつ頷いた。
「うん。すごく大切な人。まだ一度も会ったことないんだけど」
「会ったこともないのに?変なの」
お姉ちゃんは怪訝な顔をして、部屋を出ていった。きっと頭のいいお姉ちゃんには理解できないんだろうな。
そう思っていたらーー
「これ、あんたにあげる」
お姉ちゃんが、何か奇妙なものを手に戻ってきた。
今度は私が怪訝な顔をする番だった。だってそれは、人の頭みたいに見えたから。
「な、なにそれ……?」
「見てわからない?ウイッグよ」
お姉ちゃんは私の頭に、それを丁寧にかぶせてくれた。鏡の前に立って、目を開いた。
「すごい……」
私は頭に手を触れてつぶやいた。
ココア色をしたさらさらの長い髪。細くてまっすぐで、ぱっと見では作りものとはわからないクオリティ。少し髪が生えてきたばかりの私の頭に、それはとてもよく馴染んでいた。
「でも、お姉ちゃん、なんでこんなの持ってたの?」
お姉ちゃんは、いたずらっぽい笑みを浮かべて答えた。
「たまには気分を変えたくなることもあるのよ」
ぽん、と私の肩に、お姉ちゃんの手が置かれた。
「うちのことは大丈夫だから。お母さんたちには、私がなんとか説明しておくから」
お姉ちゃんは言った。鏡越しに見るお姉ちゃんと目があった。それから、ふっとお姉ちゃんは笑って言った。
「だからあんたは何も気にせず、自分のしたいことをすればいいのよ」
*
ユキが、泣いていた。目に滲んだ涙が、コップを少しだけ傾けるみたいにつうっと細く?を伝った。
「ユキ……」
私は思わず息を呑む。人が泣く瞬間を、初めて見たかもしれない。こんなにも綺麗な涙を、初めて見たかもしれない。
「ごめん」
とユキは慌てて手で涙を拭った。
「俺が泣いてどうすんだよな」
そう言って笑おうとしたけど、失敗したみたいだった。
私は首をぶんぶんと横に振る。
「ありがとう」
ーー私のために泣いてくれて、ありがとう。
「あのね」
私もつられて泣きながら言った。
「私もずっと、ユキのことが好きだったよ」
ずっと、ずっと、ずっと。会いたくて、連絡が途切れたら不安でなにも手につかないくらい、
「大好きだよ、ユキ」
私はもう、ぐしゃぐしゃに泣きじゃくった。顔がどうなろうと今さらどうだってよかった。だって、やっと本当の自分を見せられたから。これでもう、嘘はなにもなくなったから。
「イノリーー」
ふわり、とユキの腕が私を抱きしめた。
「俺は、イノリが好きだから。髪が長くても短くても、病気でも健康でも、それは絶対に変わらないから」
明日さえどうなるかわからないこの世界で、それだけは確かに絶対に、そう言えるから。
ーー何があっても、君を好きな気持ちは変わらない。
でも、とユキが私が持つウイッグを手にとって、私の頭にかぶせた。
「好きな格好をするのを、嘘だとは思わないよ」
ていうかーー、
「……俺は、長いほうが好みかも」
照れたように少し笑ってそう付け足すから、私は言葉を失ってしまう。
好みなんて、そんなの、反則だ。
「……これじゃすぐに取れちゃうよ」
私は照れ隠しにそう言って、ウイッグを直した。
「そっか、ごめん」
ユキは笑って、ふいに、私の手をとった。
「ここ、教会だよな」
「え?うん」
「だったら、祈ろう」
ユキは私の手を引いて、十字架の前に立った。そして、ぱんっ、と手を合わせた。
「どうか、イノリをーー俺の好きな人を、守ってください」
私は目を開いてユキを見た。
「ユキ……それ、なんか違うと思う……」
「い、いいんだよ、形なんてなんでも!」
恥ずかしそうに言う君の隣で、私はまた涙腺が緩みそうになる。
このひとはーー私を泣かせる天才だろうか。
私は目をつむって、両手を合わせる。
「ユキと……大好きな人と、ずっと一緒にいられますように」
これ以上の幸せを望んじゃいけない。私はずっと、根拠もなく、そう思っていた。
だけど、君がまっすぐに気持ちを伝えてくれたから、私も勇気を持てた。
逃げなくてよかった。こんな気持ちを知ることができてよかった。
『困ったときや助けがほしいときは、祈りなさい』
と、ずっと昔に、お母さんが言った。
『祈ることは、幸せを求めることだから。その気持ちはきっと、あなたを助けてくれるはずだから』
何度も何度も刷り込みのように、ひな鳥に顔を覚えさせるみたいに、言葉もわからない頃から、繰り返し言われた言葉。意味はわからなくても、私の記憶にちゃんと残っていた。
ずっと一緒になんて、無理なのはわかっているけれど。それでも、願わずにはいられなかった。
私の大好きな人と、少しでも長く一緒にいられますように。
ねえ、ユキ。
君とまだまだしたいことがたくさんあるんだ。おいしいものを食べて、くだらないことで笑って、桜を見て綺麗と言って、手を繋いで散歩したり、恋人らしいことだってたくさんしたい。
もっともっと、望まずにはいられない。
祈ることは、幸せを求めることだから。
ーーずっとずっと、この幸せが続きますように。
そんな夢みたいな願い事だって、君が一緒なら叶ってしまいそうな気がした。
7月のはじめ。あの霧の日以降、世界は急速に終わりに向かって近づいていった。人口は激減し、学校は閉鎖され、電波は途切れ、テレビも電話も繋がらなくなった。相変わらず太陽は見えず、重たい灰色の空が広がっていた。
ユキと連絡が取れなくなって、2週間が経った頃だった。
「あんた、やばいよ。鏡見てみなよ」
お姉ちゃんにそう言われて、自分の異変に気づいた。
鏡を見て、愕然とした。それはいつも見ている自分ではなかった。顔はやせ細り、顔色は青白く、頭に少し触れただけで、髪の毛が束になってぱらぱらと抜け落ちた。
数日後には、長かった私の髪は、ほとんどすべてなくなってしまっていた。
ストレスで、人はこんなふうになってしまうのか。
だけど、私の中で起こった異変は、そんなわかりやすいものだけじゃなかった。
私のあまりの変わりようを心配したお母さんは、知り合いのお医者さんのところに私を連れて行った。病院は驚くほど混んでいて、待っている人たちは不安げな表情をしていた。医者も看護師もみんな慌ただしく動きまわって疲れているようだった。
やがて私の名前が呼ばれ、お母さんと一緒に診察室に入った。
問診、触診、レントゲン。ごく普通に診察を終えた医者は、貼りつけたレントゲン写真を睨みながら、私に言った。
『櫻田さん、あなたは、灰害になっています』
『え……?』
予想もしない言葉だった。
灰害とは、人を一瞬にして灰にしてしまう恐ろしいものだった。変化は体内で少しずつ起こり、でも外見の変化はほとんどない。実際に灰害にあった人を私は見たことがなかったけれど、人は最期のその瞬間になるまで、自分が灰害にかかっていることなど気づかないはずだった。
だけど私の身に起こった変化は、どう考えても普通じゃなかった。
『そんな………』
『ただしあなたは、少し特殊なケースではありますが』
愕然とする私にわ先生は言った。
『特殊ってどういうことですか。うちの娘がおかしいって言うんですか?』
お母さんが、先生を睨みつけて声を荒げた。
先生は困った様子で、いえ、と首を振った。
『というよりも、進行速度がとてもゆっくりなんです』
一般的に、灰はいったん人体に入り込むと、そこからどんどん吸い込むようにして、内部に灰を溜め込むという。それによって内臓や血管や皮膚が少しずつ弱っていき、機能しなくなり、やがては全て灰に変わってしまう。
その期間は、長くて3日。多くの場合、見た目の変化に気づく前ーーあるいは気づいた瞬間に、人は灰に変わる。
だけど私の場合は、その速度が限りなく緩やかなのだそうだ。人よりもゆっくりしているから、気づいてしまう。自分の中で起こっている変化に、皮膚の弱りに、そして、髪を失った。
『正直に言って、私にもはっきりとした原因や、進行速度はわかりません。有効な薬もなければ、あとどれくらいということも言えません。ですが、灰害は確実に進行します。止まることはありません』
私は、ぼうっと先生の話を聞いていた。ショックだったけれど、納得したところもあった。自分の中で起こっている変化は、自分がいちばんわかっていた。だけど、まるでそんなことを予想していなかったお母さんは、今にも倒れそうに青ざめていた。病気の私のほうが、大丈夫?と思ってしまったくらいだ。
診察室を出て、お母さんが震える手で私の肩を抱いた。
『大丈夫よ。あなたは何も心配しなくていいんだから』
お母さんはそう言った。私にというよりも、自分に言い聞かせるように、何度も何度も繰り返した。
大丈夫だなんて、私はとても思えなかった。世界がこんなふうになって、自分だけが助かるなんて思っていたわけじゃなかった。
私の体は今この瞬間も、少しずつ灰に侵食されている。止まることはない。怖いというよりも、悲しかった。すごく悲しいはずなのに、涙さえ枯れてしまったみたいに、泣くこともできなかった。
死を意識した途端、ユキに会いたい、と思った。強く、切実に、それだけを求めた。それが私の最後の、たったひとつの願いだった。
ーーお願いします。お願いします。お願いします。
私は毎日祈った。人のいなくなった学校の屋上で、宇宙と通信するみたいに灰色の空に携帯をかかげて、ほんの一瞬でも、電波が入ることを願った。何度も何度もメッセージを送って、だけどその度にエラーになった。
それでも私は、諦めるわけにはいかなかった。ユキと繋がる手段は、これしかないんだ。
側から見たら完全に変な人だな、と思った。自分がこんなことをするなんて思わなかった。だけどもう変だとか普通だとか、どうだってよかった。私もこの世界もとっくに普通じゃなくなってるんだから。
ーーねえ、ユキ。
私も私のまわりの環境も、どんどん変わっていくよ。
ユキはどうしてる?
君に会いたい。会って話がしたい。毎日くだらないメッセージを送りあって笑ってたみたいに、君の隣で。
ーー生きてるうちに、ユキに会いたいな。
春、サユミと昼間の屋上で、線香花火をしながらお願いをした。サユミからもらった「月の石」は、私の腕で揺れている。
あのときよりも、ずっと強く想う。
どうか、どうか。願いを叶えてください。
『会いたい。』
ーーユキに会いたい。
何度送ったかわからないメッセージ。その度にエラーになって、がっかりして、
でも、1度だけ、ならなかった。
「送れた……っ!」
私は飛び上がった。エラーにならなかった。
ユキのところに、届いたんだ。
でも、一瞬だけだった。すぐにまた繋がらなくなって、ユキが返事を送ってくれたとしても受けとれない。
まだだ、と思った。まだ諦めちゃだめだ。1度繋がったんだから、また、繋がる瞬間がどこかにあるかもしれない。
そしてーー
もう一度、その瞬間が訪れた。
『俺』『も』と文字がノイズの混じった音みたいに途切れ途切れに届いた。
繋がった言葉は、
『俺も会いたい。』
私は顔を覆った。
奇跡みたいだと思った。いや、奇跡が起こったんだ。
私の想いが届いたこと。君も同じ気持ちでいてくれたこと。
だけど、戸惑いもあった。ほとんど髪を失った、自分ですらまだ受け入れられないこの姿で、ユキに会うことに。
こんなふうになった私を、君はどう思うだろう。会ったこともないのに、そんなことが心配だった。
家に帰ると、お姉ちゃんがピアノを弾いていた。お姉ちゃんがよく弾いている曲『月光』だった。
「お姉ちゃん、その曲好きだよね」
「これを弾いていると落ち着くの」
とお姉ちゃんは言った。
ピアノを弾いていなくても、お姉ちゃんはいつだって落ち着いて見えるけど、そうじゃないんだろうか。
「あんた、家出てくの?」
ふいにそう言われて、どきりとした。
「えっ、なんで……?」
「そんな顔してたから」
お姉ちゃんは、私の顔をまっすぐに見つめてそう言った。
私は思わず自分の顔に触れた。どんな顔してたんだろう。
「誰か、会いたい人がいるの?」
お姉ちゃんに真顔で問われて、私は戸惑いつつ頷いた。
「うん。すごく大切な人。まだ一度も会ったことないんだけど」
「会ったこともないのに?変なの」
お姉ちゃんは怪訝な顔をして、部屋を出ていった。きっと頭のいいお姉ちゃんには理解できないんだろうな。
そう思っていたらーー
「これ、あんたにあげる」
お姉ちゃんが、何か奇妙なものを手に戻ってきた。
今度は私が怪訝な顔をする番だった。だってそれは、人の頭みたいに見えたから。
「な、なにそれ……?」
「見てわからない?ウイッグよ」
お姉ちゃんは私の頭に、それを丁寧にかぶせてくれた。鏡の前に立って、目を開いた。
「すごい……」
私は頭に手を触れてつぶやいた。
ココア色をしたさらさらの長い髪。細くてまっすぐで、ぱっと見では作りものとはわからないクオリティ。少し髪が生えてきたばかりの私の頭に、それはとてもよく馴染んでいた。
「でも、お姉ちゃん、なんでこんなの持ってたの?」
お姉ちゃんは、いたずらっぽい笑みを浮かべて答えた。
「たまには気分を変えたくなることもあるのよ」
ぽん、と私の肩に、お姉ちゃんの手が置かれた。
「うちのことは大丈夫だから。お母さんたちには、私がなんとか説明しておくから」
お姉ちゃんは言った。鏡越しに見るお姉ちゃんと目があった。それから、ふっとお姉ちゃんは笑って言った。
「だからあんたは何も気にせず、自分のしたいことをすればいいのよ」
*
ユキが、泣いていた。目に滲んだ涙が、コップを少しだけ傾けるみたいにつうっと細く?を伝った。
「ユキ……」
私は思わず息を呑む。人が泣く瞬間を、初めて見たかもしれない。こんなにも綺麗な涙を、初めて見たかもしれない。
「ごめん」
とユキは慌てて手で涙を拭った。
「俺が泣いてどうすんだよな」
そう言って笑おうとしたけど、失敗したみたいだった。
私は首をぶんぶんと横に振る。
「ありがとう」
ーー私のために泣いてくれて、ありがとう。
「あのね」
私もつられて泣きながら言った。
「私もずっと、ユキのことが好きだったよ」
ずっと、ずっと、ずっと。会いたくて、連絡が途切れたら不安でなにも手につかないくらい、
「大好きだよ、ユキ」
私はもう、ぐしゃぐしゃに泣きじゃくった。顔がどうなろうと今さらどうだってよかった。だって、やっと本当の自分を見せられたから。これでもう、嘘はなにもなくなったから。
「イノリーー」
ふわり、とユキの腕が私を抱きしめた。
「俺は、イノリが好きだから。髪が長くても短くても、病気でも健康でも、それは絶対に変わらないから」
明日さえどうなるかわからないこの世界で、それだけは確かに絶対に、そう言えるから。
ーー何があっても、君を好きな気持ちは変わらない。
でも、とユキが私が持つウイッグを手にとって、私の頭にかぶせた。
「好きな格好をするのを、嘘だとは思わないよ」
ていうかーー、
「……俺は、長いほうが好みかも」
照れたように少し笑ってそう付け足すから、私は言葉を失ってしまう。
好みなんて、そんなの、反則だ。
「……これじゃすぐに取れちゃうよ」
私は照れ隠しにそう言って、ウイッグを直した。
「そっか、ごめん」
ユキは笑って、ふいに、私の手をとった。
「ここ、教会だよな」
「え?うん」
「だったら、祈ろう」
ユキは私の手を引いて、十字架の前に立った。そして、ぱんっ、と手を合わせた。
「どうか、イノリをーー俺の好きな人を、守ってください」
私は目を開いてユキを見た。
「ユキ……それ、なんか違うと思う……」
「い、いいんだよ、形なんてなんでも!」
恥ずかしそうに言う君の隣で、私はまた涙腺が緩みそうになる。
このひとはーー私を泣かせる天才だろうか。
私は目をつむって、両手を合わせる。
「ユキと……大好きな人と、ずっと一緒にいられますように」
これ以上の幸せを望んじゃいけない。私はずっと、根拠もなく、そう思っていた。
だけど、君がまっすぐに気持ちを伝えてくれたから、私も勇気を持てた。
逃げなくてよかった。こんな気持ちを知ることができてよかった。
『困ったときや助けがほしいときは、祈りなさい』
と、ずっと昔に、お母さんが言った。
『祈ることは、幸せを求めることだから。その気持ちはきっと、あなたを助けてくれるはずだから』
何度も何度も刷り込みのように、ひな鳥に顔を覚えさせるみたいに、言葉もわからない頃から、繰り返し言われた言葉。意味はわからなくても、私の記憶にちゃんと残っていた。
ずっと一緒になんて、無理なのはわかっているけれど。それでも、願わずにはいられなかった。
私の大好きな人と、少しでも長く一緒にいられますように。
ねえ、ユキ。
君とまだまだしたいことがたくさんあるんだ。おいしいものを食べて、くだらないことで笑って、桜を見て綺麗と言って、手を繋いで散歩したり、恋人らしいことだってたくさんしたい。
もっともっと、望まずにはいられない。
祈ることは、幸せを求めることだから。
ーーずっとずっと、この幸せが続きますように。
そんな夢みたいな願い事だって、君が一緒なら叶ってしまいそうな気がした。