灰色の世界で、君に恋をする
1.
鞄の中で、携帯がブルル、と振動するのがわかった。
私は先生がこちらを向いていないのを確認しながら、音を立てないように鞄から携帯を取り出す。
新着メッセージ、1件。
『今日の昼飯はサンドイッチ(^^)』
という文面に、今撮ったのだろうランチボックスに整えられたサンドイッチの写真。柔らかそうな食パンに、ハムと卵とみずみずしいトマトとレタスが挟まれている。まだ授業中なのに、思わずお腹が鳴りそうになって、私は慌てる。
ユキの通う学校はうちの学校より、朝の登校から下校までの時間が15分ずつ早いらしく、こういうすれ違いがよく起こる。だからこっちが授業中でもお構いなく、ランチの実況をしてきたりする。
……っていうかこれ、絶対わざとだよね。
「櫻田さん、次のページ、読んでもらえる?」
ふいに名前を呼ばれて顔をあげると、さっきまで背中を向けていたはずの先生と、ばっちり目があってしまった。つり上がったメガネをかけた、いつもピリピリしている女の先生だ。
「櫻田祈さん、聞いてますか!?」
先生がヒステリックに声を張り上げる。
「は、はい……っ!」
私はうろたえる。次のページと言われても、今がどのページなのかさっぱりだった。
前の席に座る子が、教科書を立ててココと指をさしてこっそり教えてくれる。私は内心彼女に感謝しながら、立ち上がって教科書を読む。英語の予習は昨日のうちにしておいたから、詰まることなくスラスラと読めた。
「発音は完璧だけど、授業中に携帯電話は触らないこと。いいわね」
先生が言って、まわりの生徒がくすくす笑う。私は恥ずかしくなって下を向く。
「すみません……」
私は顔が熱くなるのを感じながら、すとんと腰を下ろした。
は、恥ずかしい……。
だけど没収されなくて済んで、ホッとした。夕方までユキに返事ができないのはつらいから。

チャイムが鳴って、ようやく昼休憩。それぞれガタガタと机を動かして、お弁当の準備をはじめる。
「櫻田さん、一緒に食べよー」
さっき助けてくれた吉沢さんが誘ってくれる。
「こっちこっちー」
と中村さんがにこにこと手招きするほうへ、私は遠慮がちに机を寄せる。
「あの、ありがとね」
私が言うと、2人がキョトンとする。それから、あはは、と笑いだす。
「なに言ってるの、全然いいってー」
「うんうん。遠慮とかしなくていいからね」
そんなふうに言われて、私は苦笑してしまう。
彼女たちとお弁当を食べるようになって、今日で2日目。ふたりともいい子だし、話しやすい。だけど、彼女たちには彼女たちの空気みたいなものができあがっているし、その中に私がいきなり入って邪魔をしているみたいで、申し訳ないなと思ってしまう。
祈は無駄に気を遣いすぎなんだよ、とサユミなら言うかもしれない。だけど、サユミがいなくなったから、こうなってるんだ。
理不尽と知りつつも、私はつい心の中でサユミに愚痴を言いたくなる。
そういえばさ、と吉沢さんがウインナーをつまみながら言う。
「櫻田さん、どうして瀬乃さんと一緒にいたの?」
「え?」
唐突な問いに、私は焦った。今まさに、その瀬乃サユミのことを考えていたのが、ばれていたのかと一瞬思った。
「あ、それあたしもずっと気になってた。瀬乃さんって、櫻田さんと全然タイプ違うっていうか、不思議な組み合わせだなあって」
ねえ?と、2人で目で示し合わせる。2人とも、言いたいことは一緒みたいだ。
「サユミとは、中学の頃からずっと仲よかったから」
私はなるべく感じ悪くならないように、笑顔で答えた。
「そっかあ」
と2人は少し納得したような顔をする。
「でも、今だから言うけど、やっぱりあの子、ちょっと変わってたよね?櫻田さんもそう思わない?」
「ど、どうかな」
私は否定も肯定もできなくて、はは、と苦笑しながら、こういう話って苦手だな、と内心思っていた。

中学の頃から、こんなふうに言われることがよくあった。

――なんであの子と仲良いの?

たしかに、サユミは人とはちょっと違っていた。
うちの学校は中間一貫の女子校で、やたらと規律を重んじる校風がある。そんな古風な学校の中で、サユミは堂々と規則違反の髪型にしたり、制服を勝手に改造したり、気まぐれに授業をサボったり、夜のプールに忍び込んだり、好き勝手ばかりしていたから、どうしたって目立ってしまうのだった。たいていの場合、悪いほうに。

中学2年の春、サユミと席が前後になった。
『ねえねえ、宿題見せてくれない?』
それが最初の会話だった。
『うん、いいけど』
『ほんと?よかったー。何にもやってなくてさあ』
あっけらかんと言うから、驚いてしまった。
うちの学校は、毎日宿題が大量に出る。そんなの嫌というほどわかっているはずなのに、新学期早々サボるなんて……。
やっぱり噂どおり、変わった子なんだ。あんまり関わらないほうがいいかも。そう思っていたのに、なにかとサユミが話しかけてくるから、無視するわけにもいかなかった。
自然と会話が増えていった。
『もっと自信持ちなよ、祈。このあたしの親友なんださらさ』
『それって、自信に繋がることなの?』
『もちろん』
サユミはいつだって根拠のない自信に満ちていた。それはどこからくるものなのか、どうすればそうなふうに堂々とできるのか、私にはよくわからなかったけれど、素直に羨ましいと思った。私にないものを、サユミはたくさん持っていたから。
だけどサユミは、ある日、唐突にいなくなってしまった。
引越しの当日、サユミが朝早くに家に来て言った。
『ごめん。ずっと言い出せなかったんだ。イノリが寂しがると思って』
『そんなの当たり前だよ』
親友が遠くに行ってしまうのに、寂しくないわけがない。
『仕方ないんだよ』
と、サユミは寂しげに言った。いつだって自由で自信にあふれていただったサユミが、そんな弱音を吐くのは初めてだった。

『あたしたちは子どもだから、大人に頼って生きていくしかないんだ』



半年前から、この世界は普通じゃなくなった。
もしかしたらそれよりもずっと前から、世界はとっくに壊れていたのかもしれないけれど、私たちがはっきりとそれを実感するようになったのは、半年前からだった。
空から、灰が降るようになった。1月だったこともあり、はじめは誰もが、それは雪だろうと思った。だけど、手の中で溶けないそれは雪ではなく、灰だった。目に見えるほど大きな灰が、花吹雪みたいにはらはらと、空から降ってきたのだ。
空には巨大な分厚い雲がかぶさり、太陽をその向こうにすっぽりと隠してしまった。灰色の空から、大量の灰が降ってきた。冬休みが明けてもまだ少し残っていたお正月ムードは、一気にパニックに変わった。
これが、この国で「灰害」という言葉が使われた最初の日だった。
空から灰が降るという現象を「降灰」といい、それによってもたらされる被害を「灰害」というらしい。あれから半年間、ニュースでは連日のように、その言葉を耳にする。天気予報では、『今日の降灰確率は……』なんて言いはじめた。
だけど実際には、誰も本当のことなんて何もわかっていないんじゃないか、と私は薄々思っている。
灰害の原因について、それらしい説はたくさんある。世界のどこかで起きた火山の噴火が原因だという専門家や、あるいは氷河期の再来だとか、はたまた宇宙人による遠隔攻撃みたいなオカルトめいた説もある。
だけど、大学で地質学を教えているお父さんによれば、どんな専門知識をもってしても、今の段階でははっきりとした原因はわからないのだという。原因がわからなければ、対処法もわからないということだ。

私はぼんやりと窓の外を眺める。分厚い雲に覆われた灰色の空。灰が降るといっても、ほとんどの場合は細かすぎて目には見えない。限りなく薄い霧みたいに、ごく自然に空気中に拡散している。だけど、灰は絶え間なく降り続けている。半年前のあの日からずっと、今この瞬間も。
ただひとつわかるのは、灰害の影響は、私たちが予想していたよりはるかに大きく、もはや誰にも太刀打ちできないところまできているということだ。
空から降る灰はゆっくりと時間をかけて降り積もり、海や土地を腐敗させ、動物や人の体の中にも入り込む。内臓機能を破壊し、皮膚細胞にまで侵食し、最終的にはその全てを灰に変えてしまう。
それはもはや私たちが知っている、火を燃やして発生するただの灰ではなく、この世界を破壊するほど強大な病だった。
被害は人が集まる街中から広がっていく。私たちの住む街も例外ではなく、人がどんどん減り続けている。
今日もクラスの約3分の1が欠席。それでもたぶん、この学校はまだのんびりしているほうだ。他の学校は、すでに生徒がほとんど来なくなって閉鎖に追い込まれたところも少なくないという。
いなくなった生徒たちのその後は、基本的には知らされることはない。学校に行く意味を見出せなくなった人、どこか別の地域に引っ越した人、もしくは、灰害によって命を落とした人。
当たり前だと思っていた日常が、なくなるのはあっという間だった。


――残念ながらね、祈。

ずっと前に、サユミがいつになく神妙な顔つきで言った。
『世界は終わるよ。近いうちにね。人間がいくらじたばたしたところで、待ってなんてくれない』
そんな突拍子もないことをあまりにも真面目に言うから、私はつい笑ってしまった。
『ええ、なにそれ?』
サユミは冗談を言っているんだと、そのときは思った。だってその頃は、空から灰が降ってくるなんて、誰も想像しなかったから。
世界のどこかで起きた事件。火山。爆発。異常気象――そんな日常とはかけ離れた出来事が、私たちの日常をこんなにも変えてしまうことになるなんて、夢にも思わなかった。
だからね、とサユミは私の一笑を無視して続けた。
『やりたいことをやるなら今のうちだよ。勉強なんて、すぐに意味のないものになっちゃうんだから』
「やりたいこと、かぁ」
そのときは、ピンとこなかった。
何かにつけて規律を守れ、勉強しろ、と口うるさいこの学校で、勉強が意味のないものになる日なんて来るんだろうか。もしそうなら、楽かもしれないなあ、なんて呑気なことを考えていたくらいだ。
だけど今、このがらんと寂しくなった教室を見て、私は思う。
サユミの言っていたことは、真実だったのかもしれない。
世界は本当に、終わってしまうのかもしれない。

――やりたいことをやるなら今のうちだよ。

その言葉が、あの日以来ずっと、頭の中をぐるぐる回ってる。
いつも通り授業を受けて、お弁当を食べて、クラスメイトがいなくなったことなんてまるでなかったかのように、不自然なほどに平静を貫こうとする彼女たち。
日常なんて、もうどこにもないのに。こんなことしてる場合じゃないのに。
もう半年も太陽がでていない。夏なのに暑くもない。人が毎日のようにいなくなっていく。こんな世界が、正常であっていいはずがない。
やりたいことなら、ひとつだけあった。
どうしても叶えたい願いが、私にはある。
だけど、日常の外に踏み出すことは、私が思っていたよりもずっと、勇気がいることだったのだ。



私とユキのやりとりが始まったのは、4年と5ヶ月前の春休みからだった。
たまたま見つけて登録してみた読書SNSで、ユキのことを見つけた。読んだ本のレビューを書いたり、他の人のレビューを見て意見を交換したりする、本好きのための交流サイトだ。クラスメイトの誰も知らないようなマイナーなサイトだったけど、誰にも見られていないという特別感が気に入っていた。同じ本を読んでも、自分とは違う考えを知るのはおもしろかったし、同じ意見を見ると、知らない人でもどこか身近に感じて嬉しくなったりした。
私はすぐにそのSNSに夢中になった。
そこで、ユキのレビューを見つけた。『林檎の樹』という昔の外国の恋愛小説で、私も何年か前に、図書館で借りて読んだことがあった。身分違いの切ない恋の話だった。
お金持ちの家の青年が町娘に恋をして、駆け落ちの約束をした。しかし、青年は約束の日に彼女を迎えにこなかった。彼女は帰ってこない青年をそれでもずっと待ち続けた。青年はずっと歳をとってからそのことを知り、今は亡き彼女に思いを馳せる、という報われない話だった。
私はこの話を読んで、青年のことをひどいと思った。報われなかった健気な彼女に同情した。けれど、ユキのレビューには、反対のことが書かれていた。
私は気になって、コメントしてみた。誰かのレビューにコメントをしたのは、それが初めてだった。普段は気になっても「そういう考え方もあるんだ」と思うだけなのに。そのときはなぜだか、どうしても聞いてみたくなった。
きっと、ユキの文章に、引き寄せる力があったのだ。

ユキの返事はこうだった。
『このふたりは、育った環境とか考え方が、あまりにも違いすぎるから。だから一緒になっても、きっとうまくいかないんじゃないかなって思って』
『でも、フィクションなんだから、ハッピーエンドでいいのに』
最後はやっぱり、ふたりに幸せになってほしかった。
『彼女はずっと片思いだったけど、青年にとってはハッピーエンドだったのかも』
青年の立場で考えたことがなかった私には、目から鱗だった。たしかに青年は、彼女と別れて違う女性と結婚し、幸せになっている。
おもしろい考え方をする人だな、と思った。
それから私たちは、おもしろい本を見つけてはレビューを書き、お互いにコメントしあった。普段読まないような話も、読んでみたいと思うようになった。

それから、3ヶ月ほど経った頃。

『えっ、ユキって、女の子じゃないの?』

私はふとした会話から、衝撃の事実を知った。
名前からして、勝手に女の子とばかり思っていた。女子校育ちの私にとって、男の子というのはなんとなく、小説の中だけの、別次元の存在だったから。

――私、いままでずっと、男の子と話していたんだ。

『ごめん、薄々勘違いしてる気はしてたけど、なかなか言い出せなくて』
『こちらこそ、勝手に勘違いしてしまってごめんなさい』
『でも結果的には騙してる感じになっちゃったし。嫌だったら、ブロックしてくれて構わないから』
『そんなことしないよ』
3ヶ月のやりとりで、真面目な人なんだな、というのはわかっていた。今さら嫌になんてならなかった。
私たちは少しずつ、距離を縮めていった。
それでも話題は、ほとんどが本の話に限られていた。本の話ならいくらでもできたけれど、それ以外にどんな話をすればいいのか、わからなかった。

私たちの距離が少しだけ縮まったのは、中学2年の6月のこと。
毎年恒例、学年全体での山登りの日だった。
『あっつーい。じめじめするー。こんな時期になんで山登らなきゃいけないのかね』
サユミが愚痴を言いながら歩く。
『どうせなら、もっと爽やかな季節がいいよねえ』
中学3年間、なぜか毎年6月に山登りをする。場所は学年ごとに違っていて、その年は風見町というところにバスで行った。
途中でトイレ休憩があった。みんな休憩所でトイレに行ったり自販機でジュースを買ったり石に腰掛けておしゃべりしたり、思い思いの時間を過ごしていた。
『トイレ行ってくるけど……大丈夫?』
と私は立ち上がって、サユミに声をかけた。サユミはすっかりバテていて、ぐったりと頭を垂れていた。
『大丈夫じゃない……』
『じゃあ、帰りに飲み物買ってくるよ』
『ありがとー……』
女子トイレに向かったものの、かなり混み合っていて、早く戻りたかった私は、少し前に見かけた遠いほうのトイレに向かった。
はずだったのだけれど、
『あれ……?』
分かれ道で道を間違えたのか、いつの間にか、見覚えのない道を歩いていた。
こんな単純な道で迷うなんて。自分の間抜けさに呆れつつ、すぐに引き返したけれど、
『もっと迷った……!?』
山道をなめていた。どこも同じような景色で、もうどこで間違えたのかもわからないほど、私は完璧に迷子になっていた。携帯を見れば、圏外になっている。さあっと血の気が引いた。
ど、どうしよう。これは本格的にやばいかも……。

不安になりながら、出口の見えない迷路をさ迷い続けた。
どうしよう。どうしよう。先生たちが探しているかもしれない。サユミが倒れているかもしれない。早く戻らなきゃいけないのに。焦れば焦るほど、山の深みに入り込んでいくような気がした。
足が痛くて、情けなくて、泣きそうになったとき、突然、目の前の景色がぱっと開けた。

『え……っ?』

信じられない光景だった。
森の中にぽっかり空いたエアポケットのようなスペースに、大きな桜の木があった。6月のじめじめした空気の中で、花びらを満開に咲かせていた。
風に薄紅色の花びらが舞い、ひらひらと落ちてくる。目を見張るほど美しい光景だった。
ようやく山を下りだ頃には集合時間をとっくに過ぎていて、先生や親にこっぴどく怒られたけど、興奮覚めやらない私は少しも落ち込んでいなかった。
――だって、あんなにきれいな光景を独り占めしちゃったんだから。

『今日ね、私、すごいもの見ちゃったんだ』
家に帰って、私は興奮が冷めないまま、真っ先にユキに報告した。
『へえ、なに?』
『あのね、桜が咲いてたの』
『桜?6月なのに?』
『うん。しかもこの前、雨が降ったばかりなのに』
『すごいな 。こんな時期に咲く桜もあるんだ』
ユキは疑うこともせず、素直に感心してくれた。
『もう一度、見たいなあ』
『また行けばいいじゃん』
ユキが言った。
でも――、

『……無理だよ』

私は言った。
そんなの、あの親が許すはずがない。わざわざ訊かなくたって、わかりきっていた。
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