灰色の世界で、君に恋をする


屋上の冷たいコンクリートを背にして寝転んでいると、傍に置いた携帯がピロンと音を鳴らした。
俺は仰向けのまま、携帯を手にとった。
『私もサンドイッチだったよ♪しかも中身までほとんどおなじ!』
「おお……」
偶然の一致に思わずにやけてしまう。こういう小さな偶然が、地味に嬉しかったりする。
藤也に見られでもしたら確実に馬鹿にされるだろうけどーーと思っていたら、
「ぷっ。女子かよ」
「ひゃ!!!」
まさにそいつが頭の上に現れた。同じクラスの草壁藤也だ。
びっくりして、思わずほんとに女子みたいな反応をしてしまった。
「……仕方ないだろ。会ったことないんだから」
俺は体を起こしてつぶやく。
ふうん、と藤也はわかったようなわかってないような口ぶりで言って、隣に腰を下ろした。
「やっぱ、お前らって変だよな」
焼きそばパンの袋をバリッと開けて、かじりながらそんなことを言う。
「そうかな?」
「いや、変だろ。どう考えても」
藤也は呆れながら突っ込んでくる。
「付き合ってもないのに毎日連絡とってるし。会いたいとか思うだろ、普通」
「まあ……」
ぼそっとつぶやくと、「だろー?」と藤也が身を乗り出してくる。
「あっちは待ってるんじゃねえの?お前から会いたいって言ってくるの」
「…………」
黙っていると、「まあなんでもいいけどさ」と藤也は呆れたように言って、焼きそばパンの残りの半分を全部口に押し込んだ。詰め込みすぎてちょっとむせている。お茶で無理やり流し込んで、
「本当に会いたいと思ったときには、手遅れってこともあるんだからな」
じゃあな、と意味深な言葉を残して、屋上を出て行った。
「なにしに来たんだよ……」
いや、焼きそばパン食べにきたのか。
あれでも心配してくれてるんだろうな、と苦笑する。

立ち上がって、柵の向こうの景色をぼんやりと見つめる。
目の前には、灰色の空と、ビルが並ぶ街並みが広がっている。ここはどこだろう、と自分の生まれ育った街を見て思う。都会でも田舎でもない、これといって特徴のない街。ビルの向こう側に小さな海が見える。
「夏のない年」と誰かが言った。そんなことがあるのだろうかと信じきれずにいたけど、本当にその通りになった。
今は7月、夏休みに入る少し前。本来なら梅雨が明けてとっくに夏盛りを迎えていてもいいはずなのに、うだるような湿気も熱気も上空から照りつける太陽の日差しもない。去年までは、熱中症対策だクーラー病だと騒がれていたのが嘘みたいな毎日が続いている。
……ただ涼しいだけの夏ならよかったのに。
俺はそっと手のひらを空に向けてみる。実感がないけれど、いまこの瞬間も、
――灰が、降ってるんだよな。
不思議な感覚だ。それはほとんどの場合目に見えず、だけど確かに静かに、この重たい雲がのしかかった灰色の空から、灰は降り続けているらしい。灰はゆっくりと降り積もり、侵食する。土地も、海も、植物も、人も、動物も、すべて、目には見えないものに侵されてしまう。
もはや誰にも止めようがない。

――会いたいとか思うだろ、普通。

思うよ。今すぐにだって、できることなら会いに行きたい。
だけど現実は、そんな簡単にはいかないものなんだ。



サユミの言葉を借りれば、世界はそう遠くないうちに終わってしまうらしいのに、変わらないものは案外たくさんある。学校でも、家でも。
「おかえりなさい、祈」
お母さんが出迎えるなり上機嫌に言う。
「ピアノの先生がいらしているわよ」
「はぁい」
靴を脱いであがろうとすると、「待ちなさい」と呼び止められる。
「なあに、その投げやりな返事は。そんな態度でレッスンを受けたら先生に失礼でしょう?」
私はお母さんには聞こえないように、そっと小さくため息を落とす。
……私には、学校から帰ってちょっとひと息つく暇すらないんですか。
制服を脱いで、白い無地のゆったりとしたワンピースに着替える。それから1階の奥のレッスン室に向かう。
「おかえり、祈ちゃん」
お母さんのお気に入りの、若くてイケメンなピアノの先生が、にっこりと爽やかな笑みをこちらに向ける。
「お願いします、先生」
私はしずしずと赤い布張りの椅子に腰掛ける。
「じゃあ今日はここからやってみようか」
私は鍵盤に置いた指を楽譜どおりに動かしながら、心はうわの空だった。
世界が終わりかけているときに、ピアノの練習なんかして意味があるのだろうか。勉強なんて意味があるのだろうか。学校に行く意味なんて……
そう疑問に思っていても、結局はなにも行動できず、言われた通りに指を動かすことしかできない自分がもどかしかった。

1時間半のピアノのレッスンが終わり、少し休憩を挟んだら、次はお姉ちゃんの番だ。
「ねえ、待ってるんだけど、早くしてくれる?」
お姉ちゃんが、すでに部屋の前で待機している。時間通りに終わったのに、お姉ちゃんはお母さん似でせっかちだ。
「終わったよ。先生、ありがとうございました」
「今日は調子がよかったね。来週も頑張ろう」
いつもより適当だったはずだけど……。先生のわかりやすいお世辞に、私はそっと苦笑する。
お姉ちゃんはきびきびと部屋に入ってきて、姿勢よく椅子に座った。
「よろしくお願いします、先生」
よろしくね、と先生が微笑みを返す。
お姉ちゃんの指遣いは鍵盤の上を滑らかにすべり、つい目を奪われる。楽譜をいっさい見ずに、手がリズムを覚えているかのようにさらさらと美しい音色を紡ぎだす。
お姉ちゃんが弾いているのはかなり難易度の高い曲で、有名なオペラ音楽にもなっているものだ。激しい男女の恋愛がテーマなのだけれど、どうして恋愛もロクにしていない(はずの)お姉ちゃんが、そんな難解な曲をこんなにも華麗に弾きこなせるのか、私には不思議だった。
才能がある人には、経験なんて必要ないのかな。私も昔からピアノをやっているのに、悲しいほどに自分には才能を感じられない。ふうとため息を吐きつつ、私は部屋を後にしあ。
この家にいると、どこにいても嫌でもピアノの音が聞こえてくる。最近になって、お姉ちゃんはさらに腕をあげたような気がする。それくらいは才能がない私にもわかる。すごいな、と思いつつ、その美しい音色を苦痛にも感じてしまう。
お姉ちゃんには、ピアノや勉強以外にやりたいことはないの?
そう尋ねたら、どう答えるだろう。聞いてみたい気もしたけれど、きっと馬鹿にされるだけだと思った。

私の家は、大学教授の父と元ピアニストの母、両親の遺伝子を受け継ぎ勉強とピアノのどちらも優秀な姉と、逆にどちらの遺伝子も受け継がなかったなんの取り柄もない妹の私、というシビアな家族構成だ。真面目で古風な考え方の彼らは、世界の行く末よりも、今まで築いてきた地位や名誉を守るほうが、ずっと大事なことらしい。
そうこうしているうちに、あと数十分すれば家庭教師がやってくる時間だった。夕飯はその後に各自でとることになっている。家族4人が揃っていたとしても、全員で食卓を囲む機会は、この家では滅多に訪れない。
ユキにメールを送ろうとして、やっぱりやめる。今送ったら、愚痴まで一緒に吐いてしまいそうだった。
愚痴くらいいくらでも聞くよ、ってきっとユキは言うけれど、私が嫌だった。
こんなことを話したって、どうにもならない。
ユキとはいつだって、楽しい話ばかりしていたかった。
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