灰色の世界で、君に恋をする
2.
『いつか大人になったら、その桜を一緒に見よう』

4年前、あの約束をした日。
私たちは、いろいろなことを話し合った。まるで明日、本当にそこへ行く計画を立てているみたいに。
待ち合わせ場所や時間、持ち物、おやつはいくらまでとか、お互いの目印はどうするとか。
『待ち合わせ場所は、風見鶏の教会にしようよ』
そう言ったのは、私だった。
祈なんていう名前がついていながら、私自身はとくになにか信仰があるわけじゃない。だけど、図書館の本で見つけたその町の小さな教会の写真が、すごく素敵だったから。
『いいよ、そうしよう』
『ほんとに?』
私は胸を躍らせた。
私たちが教会で顔を合わせるところを想像した。なんだかすごくどきどきした。その日が待ち遠しい気もしたし、ずっと待っていたいような気もした。
この世界はまだ平和で、ふつうに暮らしていれば劇的な変化なんてなにも起こらなくて、中学生の私には少し退屈だった。世界のどこかで起きている争いや災害よりも、学校生活や顔も知らない男の子への小さな片思いのほうが、ずっと重要だった。
『楽しみだね』
と私は言った。
『そうだね』
とユキは言った。
中学生の私にとって、ひとりで電車に乗って街を出ることは一大事だった。たった2時間の距離だけど、ちょっとした旅行みたいだった。

だけど、中学3年にあがる頃には、桜の話はもうしなくなった。ユキのほうから、どこかその話を避けていた感じがした。
だから、私も言えなかった。
今さらその話を持ち出して、まだ覚えてたのかと思われるのが怖かった。
“いつか”なんて、叶うかどうかもわからない夢みたいなものだって、思ってた。
だけど、私は心のどこかで、願っていた。約束をしたあの町で、いつかユキに会えることを。


やっと、願いが叶うときがきたのかもしれない。

『会いたい。』
『俺も会いたい。』

その言葉だけで、充分だった。
あんなに迷っていたのに、その一言だけで、心が決まった。
不安がなかったわけじゃない。電車の本数はぐんと減って、今ではせいぜい1日に1本か2本しかない。無事に目的地にたどり着けるかもわからない。
だけど、もう決めたから。
何があっても、私は君に会いに行く。



私は荷物を詰め込んだスーツケースを縦にして、駅のホームで電車が来るのを待つ。家族づれやカップルがまばらにいる。そばに、ひとりで誰かを待っているような、心細そうな同い年くらいの女の子も立っていた。
同じだ、と思った。私はその女の子に、声をかけたくなった。でもやっぱりそんな勇気はなくて、少し離れて立って電車がくるのを待った。
「風見町」というのが、目的の場所だった。
4年前、課外学習で1度だけ訪れた場所。私の記憶にあるのは山登りだけで、どんな場所なのかは、後で本で調べて知った。そこは私の住むところよりずっと田舎の、山に囲まれた小さな町だった。


『まもなく1番線に電車が到着します。ご注意ください』

頭上のスピーカーから、アナウンスが流れた。
線路の向こうに、電車の頭が見える。だんだん近づいてきて、目の前で電車が停まり、先頭から車掌さんが出てきた。
優しそうなおじさんの車掌さんだった。こんな大変なときにも働いてくれて、ありがとうございます、という気持ちを込めて、私は乗り込むときに小さく頭を下げた。車掌さんがにっこりと優しく微笑み返してくれた。

両側の窓際に並ぶ赤いシートの隅っこに、私は緊張しながら座る。
この電車に乗れば、ユキに会える。ずっと待ち望んでいた願いが、ようやく叶うんだ。

電車が動きだした。
ガタン、ゴトンと、ゆっくり助走をつけて、本来のスピードを取り戻していく。
斜め前に座る女の子と、ふいに目があった。私が彼女を見たのと、彼女が私を見たのが、ほとんど同時だった。
さっき、心細そうに誰かを待っていた女の子だった。長い黒髪とぱっちりと大きな瞳が印象的な女の子。強気な感じが、少しサユミに雰囲気が似ているような気がした。サユミより、顔立ちも身なりも、ずっと女の子らしいし大人っぽいけれど。
電車に揺られながら、私はいつの間にか眠っていた。



どれくらい眠っただろうか――
唐突に、激しい揺れと耳をつんざくような金属音によって、私は目を覚ました。反動で私の身体は前のめりになり、もう少しで床に転がりそうになった。
「な、なに……?」
あたりを見回すと、みんな同じような反応をしている。突然の事態に混乱し、戸惑う表情。
私は立ち上がろうとするけれど、足がふらついてうまくバランスを取れない。
「大丈夫?」
支えてくれたのは、さっきの女の子だった。
「あ、ありがとう……ございます」
私はなんだか恥ずかしくなって、小声でそう言った。
「それより、大変なことになっちゃったみたいよ」
と、女の子は前方を見つめながら、心配そうな顔をした。
「何があったんですか?」
「……見たほうが早いわ」
女の子が私の手を引いて、前へと促す。私は戸惑いながらもついていった。


「あそこ」
と彼女が指差したのは、車掌室だった。
ガラス窓越しに部屋を覗き込んで、私ははっと息を呑む。
そこにいるはずの人が――車掌さんが、いなかった。
いや違う、とすぐに気づく。いなくなったのだ。電車が発車した後に。だってそこには、その人がいた痕跡が、まだ残っていたから。
「そんな……」
私は胸が焼かれるように痛くなった。
初めて、この目で見た。灰になった人。人だった形はもう、どこにも残っていない。床に積もった灰の塊があるだけだ。
こんなにもーーこんなにも、人は脆く壊れてしまうんだ。
「とっさにブレーキかけたんだろうね。あの人、最後まで自分の仕事したんだね」
すごいよね、と彼女は哀しげに言った。今にも泣きそうに瞳が濡れている。
「うん」と私は言ったつもりだけど、声にならなかった。
――最後まで、仕事したんだね。
電車に乗り込むときに見た車掌さんの笑顔が、頭に焼きついて離れない。

手を引かれて、私はようやく足を動かした。
「これからどうするの?」
ざわめく車内を出てから、女の子が言った。
「私……行かなきゃいけないところがあるんです」
私は答えた。
どうしても、私はそこに行かなければならない。そこへ行く以外に、ユキと会う方法はないのだから。
だけど、どうやって?今、どこにいるのかもわからないのに。
焦るばかりで、方法がわからない。自分の足だけでたどり着けるのだろうか。電車で2時間かかる距離を、この足で?
「どこ?」
彼女は言った。
「風見町っていうところなんだけど……」
「ほんと?」
彼女は目を丸くした。
「だったら、一緒に行こうよ」
「えっ?」
「もうすぐ、あたしの友達が車で迎えに来てくれるの。それまで、一緒にここで待とう?きっと連れてってくれるよ」
「え、いいんですか……?」
驚く私に、彼女はにっこりと優しく笑った。
あ、と私は思った。
笑うと大人っぽいその顔がぐっと幼くなって、さっきよりももっと濃く、サユミの面影を思わせた。思わず泣きそうになるのをぐっと堪える。
「あたし、桃香っていうの。あなたは?」
彼女は私の手を引いたままにこっと笑った。ふわっと花が咲くような、可愛い笑顔だった。
「……私は、祈。よろしくね」

桃香は私の3つ上、20歳だった。服飾系の専門学生で、親元を離れてひとり暮らしをしている。学校が閉鎖され、今は地元、家族のもとへ帰るところだったという。
「ご両親、心配してますよね、きっと……」
私が言うと、ないない、と桃香は冗談みたいに私の心配を笑い飛ばす。
「うちの親、あたしと同じでお気楽な人だから。たぶん、全然心配なんてしてないと思う。そのうち帰ってくるでしょ、とか思ってるよ、どうせ」
おかしそうに笑って話す桃香を見ていると、普通の家庭はそんなものなのだろうか……と、なんだか思えてくる。うちは、ちょっと普通とは違ったから。
「でも、会いたいなあ」
ふいに、零した言葉。その表情はどこか切なげで、笑っていても、やっぱり心細いんだろうな、と思う。
たったひとりで家族のもとへ帰ろうとして、電車が停まってしまって、不安じゃないわけない。だから私に声をかけてくれたんだ。

「そっちは?」
と桃香が覗き込むように私を見て言った。
「祈ちゃんは、どうしてその町に行くの?」
「私は、会いたい人がいるんです」
まだ一度も会ったことはないんだけど、と小声でつけ足すと、桃香は「まじ?」と目を丸くした。
「ほんとに初めて会うの?危なくない?」
危なくない?と言われて、初めて、私はもしかしたら危ないことをしようとしているのかもしれない、とほんの一瞬だけ考えたけれど、
「たぶん、大丈夫だと思います」
私は笑って答えた。
だって、4年間、ほとんど毎日話してたんだもん。文字だけのやりとりでも、顔も本名も知らなくても、それでも、ユキのことは、わかっているつもりだった。
「でもさ、そのユキって男が、すっごい不細工だったらどうする?」
桃香が真剣に訊いてくるから、私は思わずくすっと笑った。
「どうもしません」
「ええー。そんなもん?」
「そんなもんですよ」
ふうん、と桃香は不思議そうに頷いた。
「祈ちゃんって、上品に笑うよね。話し方とか。もしかしてどっかのお嬢様とかだったりする?」
「全然。あ、でも、学校が厳しかったから、そういうのが染みついてるのかも」
私が厳しすぎる校則をいくつかあげると、「まじ?」「あたしそんなとこで生きてけない」と桃香は大げさなくらい驚いていた。
「いまどき不純異性交遊禁止って。てか、やっぱお嬢様校じゃん」
「違いますって」

私たちは桃香の友達が来るまで、駅前のベンチで待つことにした。電車から降りてきた人たちが、目の前を行ったり来たりしている。迎えを待っている人、諦めてどこかに行く人。桃香の友達という人は、まだ来ないようだった。
露出度高めの服から、すらりと伸びた足を組み直して、桃香は言う。
「あたしの学校は真逆だったな。やりたい放題」
桃香はそう懐かしそうに話した。
校則を守っている生徒なんて1人もおらず、荒れ放題だったこと。校舎のそこらじゅうでケンカが起こり、壁じゅうにラクガキがあり、先生たちもとっくに諦めていたこと。異性交遊に関してはほとんど無法地帯と化していたこと。
「す、すごい。小説の世界みたい」
私が呆気にとられて言うと、桃香が笑った。
「あたしからすれば、祈ちゃんの学校のほうがそうだけどね」
たしかに、と思った。自分の知らない世界は、なんだか全部フィクションに思えてしまう。
私のいた場所は、すごく狭くて堅苦しい場所だったんだ、と離れてみて実感する。
「でも、あんなクソみたいな学校だったけど、それなりに楽しかったな」
桃香は懐かしそうに、そう言った。
規律ばかりでつまらない学校、とずっと思っていたけれど、なくなってしまうのはやっぱり寂しい。
もう前のように、当たり前のように登校できる日は戻ってこないのだ。

「でも……今さらだけど、もっといろんなことしたかったな」
私はぽつりとつぶやいた。
「いろんなことって?」
「スカート短くしたり、ネイルしたり。あ、マンガも読んでみたかったな」
「うそ、マンガ読んだことないの?」
「ないんです」と私は苦笑する。
「マンガなんか読んでたらバカになるからって、読ませてもらえなかったんです」
「そんなわけないじゃん。まあ、あたしバカだけど」
桃香の率直な言葉が気持ちよくて、思わず笑った。
ねえ、と桃香が言う。
「お腹空かない?そこのお店、さっき覗いたら開いてたから、なんか買ってくるよ」
「あ、じゃあ私も」
立ち上がろうとすると、「いいから」と押し戻された。
「ここは年上のオゴリ。それより、友達の車が来たら教えて。黒いワゴン車、たぶんもうすぐくるはずだから」
「あ、はい」
腕時計を見ると、午後11時。もうすぐここに座って1時間が経つ頃だ。電車を降りたばかりの頃は何人かいた人たちも、どこかに姿を消してしまった。
桃香が店に入ってゆき、私ひとりだけが、知らない景色の中にぽつんと取り残される。

――ああ、ひとりだ。

そう思った途端、急に不安が押し寄せてきた。
左腕のつやつやした白色のムーンストーンのブレスレットに、私はそっと触れる。

――祈の幸せを願ってるよ。

おまじないのように、私はサユミからもらったその言葉を思い出す。何度も何度も、心の中で唱える。
電車に乗る前の緊張感が、だんだん不安に変わっていく。本当にたどり着けるだろうか。桃香の友達を信用していいのだろうか。


「お待たせー、祈ちゃん」

背後から、声をかけられた。
桃香の声ではなく、知らない男の声だった。
振り向こうとしたその瞬間、後頭部に強い衝撃が走った。がらん、と金属の棒のようなものが地面に落ちた。
一瞬の出来事で、声をあげることもできなかった。私はそのまま、抵抗もなく前に倒れ込んだ。
「お待たせー。コイツの相手してくれたみたいでどーもね」
やけに軽々しい男の声が頭上に聞こえる。

なに。なんなの。どうしてこんなこと――
コイツって、誰?

「ごめんねぇ祈ちゃん、一緒に行くとか、やっぱメンドーだし」
今度は耳元で、桃香の声が聞こえた。信じられない気持ちで、私は重たい頭を持ち上げる。目の前に、桃香の顔があった。

――どうして、笑ってるの?

「あとね、さっきの話も全部嘘だから。家族とかとっくに縁切ってるし、同情してくれちゃって悪いんだけど」
「マジ?お前そんなこと言ったの?」
ギャハハ、お男の笑い声が不快に響く。男の顔も見える。ほとんど白に近い金髪に無数のピアス。20歳前後の、いかにもガラの悪そうな男だった。この人が、桃香の友達……?
「騙した、の?なんで……」
「決まってんじゃん」
桃香が興味もなさそうに言って、私の肩からするりとバッグの紐を抜き取る。
「オカネ、ほしかったから。あと暇つぶし?」
「ギャハハ、ひでー」
「だってさあ、こういう子ってからかいたくなるじゃん?」
桃香と金髪男は、「じゃあねー」と笑いながら去って行った。

後頭部の痛みに、意識がぼんやりとしてくる。視界の片隅に、走り去る白い車が見えた。車種はおろか、輪郭さえはっきりしない。
「…………っ」
泣きたくなんてないのに、目に勝手に涙が浮かぶ。
裏切られたこと?違う。知り合ったばかりの人に、少しも疑いを持たなかった自分の愚かさにだ。情けなくて、悔しくて、泣けてきた。
なけなしのお金も、携帯も、全部持っていかれた。手元にあるのは、スーツケースの着替えとほんの少しの食料だけ。
「バカだ私……ほんとにバカ……」
何よりも悲しかったのは、ユキとの唯一の連絡手段である携帯を失くしてしまったことだった。
電波は相変わらずないけれど、この前みたいに、もしかして奇跡的にメッセージを受信するかもしれない、そんな期待すら、持てなくなってしまった。
これからどうしよう。
歩いて行く?ヒッチハイク?でももしまたさっきみたいなことになったら……。
考えなければならないことは山ほどあるのに、頭の痛みでうまくまとまらない。
頭が痛くておでこに触ると、生温い感触。見れば、指先はねっとりと真っ赤に染まっている。

「ひ――っ」

私は今度こそ、気を失った。
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