『ヒートフルーツ【全編ナレーション版】/クロニクル・ロールストーリー
その3
内地へ帰還後、相馬豹一は蓄積させていた有り余るエネルギーを思うまま、一気に爆発させた。
正にケモノのように…。
戦後の混乱期において、それはイコール、無法地帯、言わば弱肉強食の野生世界におけるケモノ度の競い合いに相当した。
目の前にはばかる”それら”は駆逐するのみ…。
自らの心の奥底で蠢く何かにも、言ってみれば胸襟を開いてぶつかり合う…。
それは真に自己と向きあうことに帰結し、正直に生きることの証左に他ならないのだろう。
彼の場合、それは人間の持つしがらみに毒されず、獣のように誰の影響も受けず俊鋭に突き進むという行動原理に純化されていたのだ。
だが、彼の場合、そこの延長でそんな生き方を永劫に持続できるか否か…、つまり、己の真とやり合いその結果として人間的なあなあを極限まで削いだ道を歩み果てることこそ、自己達成の計りとしていたのだ。
すなわち、人間の社会でギリギリラインの獣のような自己誘導を貫き通せるか、そういった自分で生き切ることができるかが相馬豹一自らが人間たる自身に問うた究極的課題ということにあった。
その定理の下、彼は重戦車のごとき疾走をつづけた。
結果、相馬は必然的に極道の世界に収まり、東京北部で一家を構えることとなる。
***
やがて日本は高度成長期に突入、ヤクザ社会は群雄割拠の放置状態から、一気に強者による勢力統合の成熟期に入る。
昭和40年代を迎えると、関東と関西をそれぞれがほぼ全国統括した2大広域組織が形成された。
そして…、この”業界大手”の傘下団体に組込まれることを、相和会は戦後数十年にわたり、徹底してはねのけてきたのだ。
なぜ、相馬豹一率いる相和会は、圧倒的な勢力を持つ巨大組織の軍門に下らなかったのか…。
乱暴に言えば、相和会の運営が他のヤクザでは当たり前の常識をことごとく無視してきたことに行きつく。
極めつけは、組のシノギの柱たるみかじめ料といったアガリを徴収しないショバ運営にあった。
とどのつまり、東京北部と埼玉南部に渡る縄張り内での住民に強要行為が及べば即刻排除し、逆にその実行者からは制裁金を巻き上げるという逆転思考での非合法収益を得るスキームをも実践していたのだ。
従って、”同業者”との利害関係によるトラブルは他の非合法組織同士同様、日常的に起こるのだったが…、ここで彼らは組織力で比較にならない強大な相手にも屈することなく、独立組織の看板を奪われずに生き残ってきた。
***
それを貫徹でき得た組織形態は、相和会の突出した戦闘力と独自の経済力を擁したマンパワーによって支えられていた。
前者は他組織とのいざこざが勃発すればで命を張ってその急先鋒を成してきた武闘勢力の矢島三郎、後者は旧来のヤクザ業界では手の出せなかった、一般企業並みの時代を先取りしたビジネス収益で組織の財政を切り盛りする建田宗政という、最高幹部二人の手腕によるところが大きかった。
更にその二人が行き届かない領分は、伊豆で明石田組を構え、関西との強いパイプを持つ明石田泰三が兄貴分の相馬を絶妙にフォローしていたという背景があったのは言うまでもない。
いずれにしても、相馬という不世出の異端児に魅せられた男たちが結集し、それこそ命がけで相馬とともに巨大組織の侵攻に真っ向から立ち向かったその足跡は、業界内で”独立ヤクザの雄”として一目を置かれる特異な存在感を得ることになる。
***
そんな難攻不落の一匹オオカミである相和会をその勢力下に組み込まんと執念を燃やしていた東西両組織は、昭和50年代に入ると、対相和会では水面下で共同歩調をとる方針に転換する。
勢力拡充で競い合っていた永遠のライバルともいえる関東と関西の各広域組織にとって、相和会の縄張りはまさしく宝の山そのものだった。
何しろ、相和会が縄張り内の商店主らに課していないみかじめ料を得るだけでも、膨大な収益が天から降ってくるのだ。
旧来からほぼ同等の収益源を収めていた東西両サイドにとって、決定的に優位に立つためには、何としても相和会のテリトリーをその手中にすることが必要と捉えていた。
しかし、昭和45年の大阪万博抗争(本エピソードのアウトラインは関連作『愛しの撲殺男』がオススメです!)、その後の米マフィアも巻き込んだ海を跨ぐ相和会との一連の事案(詳細は関連作『セメントの海を渡る女』で現在公開中!)で、相馬と相和会の底力を目の当たりにした関西は以後、早急な相和会攻略のアクションは自制し、ひたすらカリスマ極道の相馬豹一という存在が消える時機を待つというスタンスを打ちだした。
そんなライバル関西の暗意を見切った関東は、相和会のショバとは隣接する東龍会の傘下二次団体である星流会を定期的に”動かす“ことで、対相和会の窓口たるポストをその一身に背負った。
その結果、関西とはコト成就の際、極上料理は仲良くナイフを刺し合おうという主旨同意のもと、対相和会の業界路線は共同戦略化してゆくのだった。
内地へ帰還後、相馬豹一は蓄積させていた有り余るエネルギーを思うまま、一気に爆発させた。
正にケモノのように…。
戦後の混乱期において、それはイコール、無法地帯、言わば弱肉強食の野生世界におけるケモノ度の競い合いに相当した。
目の前にはばかる”それら”は駆逐するのみ…。
自らの心の奥底で蠢く何かにも、言ってみれば胸襟を開いてぶつかり合う…。
それは真に自己と向きあうことに帰結し、正直に生きることの証左に他ならないのだろう。
彼の場合、それは人間の持つしがらみに毒されず、獣のように誰の影響も受けず俊鋭に突き進むという行動原理に純化されていたのだ。
だが、彼の場合、そこの延長でそんな生き方を永劫に持続できるか否か…、つまり、己の真とやり合いその結果として人間的なあなあを極限まで削いだ道を歩み果てることこそ、自己達成の計りとしていたのだ。
すなわち、人間の社会でギリギリラインの獣のような自己誘導を貫き通せるか、そういった自分で生き切ることができるかが相馬豹一自らが人間たる自身に問うた究極的課題ということにあった。
その定理の下、彼は重戦車のごとき疾走をつづけた。
結果、相馬は必然的に極道の世界に収まり、東京北部で一家を構えることとなる。
***
やがて日本は高度成長期に突入、ヤクザ社会は群雄割拠の放置状態から、一気に強者による勢力統合の成熟期に入る。
昭和40年代を迎えると、関東と関西をそれぞれがほぼ全国統括した2大広域組織が形成された。
そして…、この”業界大手”の傘下団体に組込まれることを、相和会は戦後数十年にわたり、徹底してはねのけてきたのだ。
なぜ、相馬豹一率いる相和会は、圧倒的な勢力を持つ巨大組織の軍門に下らなかったのか…。
乱暴に言えば、相和会の運営が他のヤクザでは当たり前の常識をことごとく無視してきたことに行きつく。
極めつけは、組のシノギの柱たるみかじめ料といったアガリを徴収しないショバ運営にあった。
とどのつまり、東京北部と埼玉南部に渡る縄張り内での住民に強要行為が及べば即刻排除し、逆にその実行者からは制裁金を巻き上げるという逆転思考での非合法収益を得るスキームをも実践していたのだ。
従って、”同業者”との利害関係によるトラブルは他の非合法組織同士同様、日常的に起こるのだったが…、ここで彼らは組織力で比較にならない強大な相手にも屈することなく、独立組織の看板を奪われずに生き残ってきた。
***
それを貫徹でき得た組織形態は、相和会の突出した戦闘力と独自の経済力を擁したマンパワーによって支えられていた。
前者は他組織とのいざこざが勃発すればで命を張ってその急先鋒を成してきた武闘勢力の矢島三郎、後者は旧来のヤクザ業界では手の出せなかった、一般企業並みの時代を先取りしたビジネス収益で組織の財政を切り盛りする建田宗政という、最高幹部二人の手腕によるところが大きかった。
更にその二人が行き届かない領分は、伊豆で明石田組を構え、関西との強いパイプを持つ明石田泰三が兄貴分の相馬を絶妙にフォローしていたという背景があったのは言うまでもない。
いずれにしても、相馬という不世出の異端児に魅せられた男たちが結集し、それこそ命がけで相馬とともに巨大組織の侵攻に真っ向から立ち向かったその足跡は、業界内で”独立ヤクザの雄”として一目を置かれる特異な存在感を得ることになる。
***
そんな難攻不落の一匹オオカミである相和会をその勢力下に組み込まんと執念を燃やしていた東西両組織は、昭和50年代に入ると、対相和会では水面下で共同歩調をとる方針に転換する。
勢力拡充で競い合っていた永遠のライバルともいえる関東と関西の各広域組織にとって、相和会の縄張りはまさしく宝の山そのものだった。
何しろ、相和会が縄張り内の商店主らに課していないみかじめ料を得るだけでも、膨大な収益が天から降ってくるのだ。
旧来からほぼ同等の収益源を収めていた東西両サイドにとって、決定的に優位に立つためには、何としても相和会のテリトリーをその手中にすることが必要と捉えていた。
しかし、昭和45年の大阪万博抗争(本エピソードのアウトラインは関連作『愛しの撲殺男』がオススメです!)、その後の米マフィアも巻き込んだ海を跨ぐ相和会との一連の事案(詳細は関連作『セメントの海を渡る女』で現在公開中!)で、相馬と相和会の底力を目の当たりにした関西は以後、早急な相和会攻略のアクションは自制し、ひたすらカリスマ極道の相馬豹一という存在が消える時機を待つというスタンスを打ちだした。
そんなライバル関西の暗意を見切った関東は、相和会のショバとは隣接する東龍会の傘下二次団体である星流会を定期的に”動かす“ことで、対相和会の窓口たるポストをその一身に背負った。
その結果、関西とはコト成就の際、極上料理は仲良くナイフを刺し合おうという主旨同意のもと、対相和会の業界路線は共同戦略化してゆくのだった。