うそつきな唇に、キス
「……おい」
何かをポケットにしまったその人は、ぱしゃ、と水溜まりを避けることもせずわたしの前に立ち、たった一言でわたしを呼ぶ。
……そう。そうだ。これが今までの普通だった。
……けれど。
「お前、名前は─────、」
その男が、なにか言葉を発そうとした瞬間、折っていた膝を伸ばし、黒髪の人の胸ぐらを掴んで引きずり倒した。
「わ、若?!」
筋肉などひとつもついていないであろうガリガリの痩躯の小娘に、何もできないと油断していたのが運の尽き。
無機質な闇を溶かしたような瞳が、わずかに見開かれた。
「ごめんなさい。……でもわたし、見下ろされるのが大嫌いなので」
シミやシワのひとつもなかった黒いシャツに、雨水が滲み、握りしめた部分に皺がよる。
傘という安全圏を抜けた先で、綺麗な人の顔に、まるで涙が落ちているみたいに雫が伝う。それに釣られたように、その人は唇を歪めた。大層愉快げに。