あなたの側にいられたら、それだけで
2
「アデル、診させてもらうよ?」
しばらくしてやってきた医者は、こざっぱりした格好をしていた。白いシャツと黒のパンツ、また綺麗な銀色の長い髪を後ろでひとくくりにしていて、一見医者とは思えない。年齢はエリオットとそう変わるような気がしないがきびきびとした手つきはたしかに医者としてのそれで、アデルは素直に彼の指示に従った。
身体を起こすのが辛いと聞いた医者は、横になったままのアデルを診察してくれた。
「うん、問題なさそうだ」
しばらくして医者がそう判断を下し、部屋の隅で誰かが息を吐いた音がアデルにも聞こえた。ベッドに横たわった彼女は天井を見上げたまま、暗い気持ちになった。
(問題、ない……? 何も覚えていないというのに)
医者が明るい口調で続けた。
「痛いのは仕方ない。痛み止めを処方しよう。後は安静にしていれば、徐々に体力は戻るはずだ。休むことが何よりの薬だね」
「そうか」
答えるエリオットの声はどこか安堵しているかのようだった。
「記憶については体力が戻ってから考えてみよう。他、注意点などを書いて渡すね」
「助かる」
二人の距離感がわかるかのような、親しげな口調だった。
「もちろんだ。――エリオット、良かったね?」
「……ああ」
ちくり、と胸が痛んだ。
(……?)
エリオットの声の何かが、アデルの心に漣を起こす。アデルはそんな自分を訝しく思いつつも身体の痛みに意識を囚われた。
医者の処方してくれた痛み止めはよく効いた。そうなると眠りも深くなり、アデルの若い身体は確実に回復していった。
“思っているよりも長い間”眠っていたようなのに、脚の力も問題なく、すぐに立ち上がることもできた。
「さすがエリオットが丁寧にマッサージしていただけのことはある」
医者が驚いてそう褒めてくれるほどの、回復力だった。
立ち上がれるようになってすぐに、部屋の片隅にある鏡を覗き込んだ。
(これが、私……?)
そこに映った女性の姿に首を傾げるしかなかった。
亜麻色のウェーブした髪に、薄茶色の瞳が印象的だった。つんと尖った鼻に、小ぶりな口元。さすがにしばらく寝ついていたということもあって陽に焼けておらず肌は真っ白で、身体も折れんばかりに細い。
(可愛いっていう感じはない、ごく普通の…………それだけだわ)
自分の顔を眺めても、記憶が蘇ることもないし、自身の顔になんの愛着もなかった。
医者の許可のもと、屋敷の中を歩けるようになるのは直だった。
徐々に生活は形になっていくのに、記憶だけが戻らない。
「すぐには難しいと思う。こればかりは、なにかのきっかけがないと無理かもしれないね」
一週間に一度診察しにきてくれる医者にはとにかく焦らないようにと忠告された。アデルは自身の核が見つからない心許ない気持ちで暮らしていた。
動けるようになって気づいたが、この屋敷には通いの使用人が数人いるだけで、エリオットしか住んでいなかった。そのエリオットがアデルの世話をしてくれる。まるで王女に忠節を誓った騎士のように。まるでこの世界が二人きりであるかのように。
「貴方は、私の家族?」
歩けるようになってしばらくしてアデルがエリオットにそう尋ねると、彼は困ったように微笑んだ。
「家族のようなものと思ってもらったらいいかな」
「家族、のようなもの……?」
「ああ」
曖昧な答えに、アデルは黙り込むしかなかった。エリオットのいない場所で医者や使用人を捕まえて、自身と彼について尋ねても誰も彼も言葉を濁す。
「記憶が戻れば、教えるよ」
エリオットを始め、判を押したようにそう諭されるのだ。
食事はいつも二人きりで囲む。エリオットはどうしてかアデルの好みをよく熟知していた。
肉料理よりも野菜が好き。塩が強すぎるものは好みではないが、辛いものは好き。フルーツだったら、甘いよりも甘酸っぱいものを。紅茶よりも珈琲を好む。珈琲に砂糖入れないがミルクはたっぷり注ぐ。
何も言わなくても、アデル好みの料理が毎回並べられる。
「貴方は私をよく知っているのね?」
彼から返ってくるのは微笑みだけ。
「家族のようなもの、だから……?」
アデルが聞けば、彼は再び困ったように微笑むだけだ。
エリオットは彼女と自身の関係についてなどは口を濁すが、その他の状況については徐々に教えてくれるようになった。
昼食の後に庭園を散歩しながら、エリオットが口を開いた。新緑が美しい季節だ。庭園は五分も歩けば一周してしまうほどの規模だが、今のアデルにはちょうどいい。
「この屋敷は、君が……祖父母から受け継いだものだよ」
エリオットのしっかりとした腕につかまって、アデルはゆっくり歩きながらその言葉を聞く。
「ご両親は残念ながら亡くなっている。兄弟は他にいない。だが心配することはないよ。祖父母の遺産で生活できているからね」
彼の説明によれば、祖父母の遺産を受けとっている関係で、アデルが記憶を失ったままだと、話せないことはたくさんあるらしい。エリオットはその条件が書かれている書類ならばアデルに見せることはできるよ、と淡々と続けた。
「でも基本は心配しないでほしい。日常生活に問題のない資金は提供が約束されている。まずはゆっくり身体を癒やすことに集中して欲しい」
「うん、ありがとう」
彼のプラチナブロンドの髪が、風で揺れ、彼女は瞳を細めた。
(……きれい……)
まるで宝石のように輝く彼の髪と、穏やかな口調。
(どうしてか、彼の側にいると安心する……)
記憶がないという不安定な状況でも、アデルはエリオットの側にいれば落ち着いていられた。もちろんエリオットがアデルの世話を献身的に焼いてくれてることと無関係ではない。だがそれ以前に彼の気配さえ感じれば、いかなる時も自身の心が鎮まることに彼女は気づいていた。
(やはり、私と彼は何か関係があるんだろうな……家族、ということは……兄にしては似ていない気がするし、では従兄弟……、それとも……恋人だった?)
アデルはエリオットにつかまっている手に力をぎゅっとこめた。
(早く思い出したいな)
しばらくしてやってきた医者は、こざっぱりした格好をしていた。白いシャツと黒のパンツ、また綺麗な銀色の長い髪を後ろでひとくくりにしていて、一見医者とは思えない。年齢はエリオットとそう変わるような気がしないがきびきびとした手つきはたしかに医者としてのそれで、アデルは素直に彼の指示に従った。
身体を起こすのが辛いと聞いた医者は、横になったままのアデルを診察してくれた。
「うん、問題なさそうだ」
しばらくして医者がそう判断を下し、部屋の隅で誰かが息を吐いた音がアデルにも聞こえた。ベッドに横たわった彼女は天井を見上げたまま、暗い気持ちになった。
(問題、ない……? 何も覚えていないというのに)
医者が明るい口調で続けた。
「痛いのは仕方ない。痛み止めを処方しよう。後は安静にしていれば、徐々に体力は戻るはずだ。休むことが何よりの薬だね」
「そうか」
答えるエリオットの声はどこか安堵しているかのようだった。
「記憶については体力が戻ってから考えてみよう。他、注意点などを書いて渡すね」
「助かる」
二人の距離感がわかるかのような、親しげな口調だった。
「もちろんだ。――エリオット、良かったね?」
「……ああ」
ちくり、と胸が痛んだ。
(……?)
エリオットの声の何かが、アデルの心に漣を起こす。アデルはそんな自分を訝しく思いつつも身体の痛みに意識を囚われた。
医者の処方してくれた痛み止めはよく効いた。そうなると眠りも深くなり、アデルの若い身体は確実に回復していった。
“思っているよりも長い間”眠っていたようなのに、脚の力も問題なく、すぐに立ち上がることもできた。
「さすがエリオットが丁寧にマッサージしていただけのことはある」
医者が驚いてそう褒めてくれるほどの、回復力だった。
立ち上がれるようになってすぐに、部屋の片隅にある鏡を覗き込んだ。
(これが、私……?)
そこに映った女性の姿に首を傾げるしかなかった。
亜麻色のウェーブした髪に、薄茶色の瞳が印象的だった。つんと尖った鼻に、小ぶりな口元。さすがにしばらく寝ついていたということもあって陽に焼けておらず肌は真っ白で、身体も折れんばかりに細い。
(可愛いっていう感じはない、ごく普通の…………それだけだわ)
自分の顔を眺めても、記憶が蘇ることもないし、自身の顔になんの愛着もなかった。
医者の許可のもと、屋敷の中を歩けるようになるのは直だった。
徐々に生活は形になっていくのに、記憶だけが戻らない。
「すぐには難しいと思う。こればかりは、なにかのきっかけがないと無理かもしれないね」
一週間に一度診察しにきてくれる医者にはとにかく焦らないようにと忠告された。アデルは自身の核が見つからない心許ない気持ちで暮らしていた。
動けるようになって気づいたが、この屋敷には通いの使用人が数人いるだけで、エリオットしか住んでいなかった。そのエリオットがアデルの世話をしてくれる。まるで王女に忠節を誓った騎士のように。まるでこの世界が二人きりであるかのように。
「貴方は、私の家族?」
歩けるようになってしばらくしてアデルがエリオットにそう尋ねると、彼は困ったように微笑んだ。
「家族のようなものと思ってもらったらいいかな」
「家族、のようなもの……?」
「ああ」
曖昧な答えに、アデルは黙り込むしかなかった。エリオットのいない場所で医者や使用人を捕まえて、自身と彼について尋ねても誰も彼も言葉を濁す。
「記憶が戻れば、教えるよ」
エリオットを始め、判を押したようにそう諭されるのだ。
食事はいつも二人きりで囲む。エリオットはどうしてかアデルの好みをよく熟知していた。
肉料理よりも野菜が好き。塩が強すぎるものは好みではないが、辛いものは好き。フルーツだったら、甘いよりも甘酸っぱいものを。紅茶よりも珈琲を好む。珈琲に砂糖入れないがミルクはたっぷり注ぐ。
何も言わなくても、アデル好みの料理が毎回並べられる。
「貴方は私をよく知っているのね?」
彼から返ってくるのは微笑みだけ。
「家族のようなもの、だから……?」
アデルが聞けば、彼は再び困ったように微笑むだけだ。
エリオットは彼女と自身の関係についてなどは口を濁すが、その他の状況については徐々に教えてくれるようになった。
昼食の後に庭園を散歩しながら、エリオットが口を開いた。新緑が美しい季節だ。庭園は五分も歩けば一周してしまうほどの規模だが、今のアデルにはちょうどいい。
「この屋敷は、君が……祖父母から受け継いだものだよ」
エリオットのしっかりとした腕につかまって、アデルはゆっくり歩きながらその言葉を聞く。
「ご両親は残念ながら亡くなっている。兄弟は他にいない。だが心配することはないよ。祖父母の遺産で生活できているからね」
彼の説明によれば、祖父母の遺産を受けとっている関係で、アデルが記憶を失ったままだと、話せないことはたくさんあるらしい。エリオットはその条件が書かれている書類ならばアデルに見せることはできるよ、と淡々と続けた。
「でも基本は心配しないでほしい。日常生活に問題のない資金は提供が約束されている。まずはゆっくり身体を癒やすことに集中して欲しい」
「うん、ありがとう」
彼のプラチナブロンドの髪が、風で揺れ、彼女は瞳を細めた。
(……きれい……)
まるで宝石のように輝く彼の髪と、穏やかな口調。
(どうしてか、彼の側にいると安心する……)
記憶がないという不安定な状況でも、アデルはエリオットの側にいれば落ち着いていられた。もちろんエリオットがアデルの世話を献身的に焼いてくれてることと無関係ではない。だがそれ以前に彼の気配さえ感じれば、いかなる時も自身の心が鎮まることに彼女は気づいていた。
(やはり、私と彼は何か関係があるんだろうな……家族、ということは……兄にしては似ていない気がするし、では従兄弟……、それとも……恋人だった?)
アデルはエリオットにつかまっている手に力をぎゅっとこめた。
(早く思い出したいな)