あなたの側にいられたら、それだけで


 しばらくしてアデルは、エリオットが定期的に外出する日があることに気づいた。一ヶ月に一度のことではあるが、その日はエリオットは昼食ののち、アデルの世話を他の使用人に任せて外出してしまう。最初は気に留めていなかったが、それが必ず月に一度ある、と気づいてからは気になって仕方なくなった。外出のことをエリオット本人はもちろん使用人に尋ねても、答えははぐらかされてしまう。

「私も一緒に出かけたい」

 と言ってみれば、エリオットは町に連れ出してくれるようになった。
――だがそれでも、彼は月に一度必ず一人で外出するのだ。しかも帰宅した彼は必ず仄かな香水の移り香を漂わせていた。

(町に、恋人がいらっしゃるのかな)

 何しろエリオットは美しい容姿を持つ、若い男性だ。彼がこの屋敷でアデルの世話を焼いているのは、おそらく祖父母の遺言と関係があるのではないか、とアデルは考え始めていた。

 その日もまたエリオットが一人きりで出かけていったので、アデルは落胆した。使用人に少し昼寝をすると断って、寝室に入った。窓辺に立って、そこから広がっている庭園の景色を眺めた。

(エリオットに恋人がいらっしゃるのなら、私から解放してあげたいな)

 だが記憶が戻らない以上、アデルに出来ることはない。それがまた歯がゆかった。アデルが眠りから覚めて半年は経っているが、彼女の記憶はかけらも戻る気配がない。
 ふう、とため息をついたその時視界の端で煌めく何かに気づいた。

「――!」

 視線を送って、息を呑んだ。
 庭園の向こう側を若いと思われる金髪の女性が男性と腕を組んで歩いていたからだ。光ったと思ったのは、その女性がつけていたネックレスでエスコートしているのはもちろん――。

(エリオット……!)

 がらがらと足元が崩れていくような感覚に囚われた。アデルは思わず目の前の窓に手をついた。
 エリオットはしばらく前に外出したはずなのに、どうしてこの屋敷にいるのだろう。予定が変わったのだろうか?
 アデルは踵を返して寝室の扉を開けようと思って、躊躇った。この扉を開けた向こうには使用人が待っているから彼女が庭園に向かおうとすればおそらく止められてしまうだろう。彼女は再び窓辺に戻ると、細心の注意を払って音がしないように窓をこじ開けた。幸い今日のドレスは室内着だから、動きやすい。必要な分だけ開けた窓から、外に這い出るとアデルは彼らに気づかれないように近づいていった。
 エリオットたちは腕を組みながら、庭園を歩いている。
 心臓が高鳴って、痛いぐらいだ。
 木と、ちょうど腰くらいまでの高さにある草の茂みに身を隠していると、彼らが近づいてきた。アデルが隠れている茂みの前にはちょうどベンチがあるから、もしかしたらそこに座るのかもしれない。
 息を潜めていると、思った通り彼らはそこに座った。
 座るなり、エリオットがため息をついた。

「こういうことは、困る」
「どうして?」

 弾けるような女性の声はまるでエリオットをからかっているようだ。

「アデルに気づかれてしまうだろう」

 どくん、と鼓動が高鳴った。

「駄目なの?」

 エリオットはしばらく黙り込んでいた。

「……駄目ではないが、あまり刺激はしたくない」
「まぁそれはそうかもしれないわね」

 随分と親しそうだ、とアデルは暗い気持ちで認めた。

「アデルさんの記憶はまだ戻らず?」
「ああ。本人もなんとか戻したいと思っているみたいだが、こればかりはなかなかな……」
「アデルさん、大変ね。それに、貴方も」

 同情したかのような女性の声が響いた。

「俺?」
「ええ。アデルさんが元通りにならない限りは、なかなか自由になれないじゃない」

 その言葉はまるでナイフのようにアデルの心を刺し貫いた。呼吸の仕方を忘れるほどの衝撃を受けているアデルの耳に、いつものような穏やかなエリオットの声が響く。

「そんな言い方はやめてくれないか。俺は今の状況が自由ではないなんて思っていない」
「だけど、でも本当だったらエリオットの奥様が……」

(―――!!)

 エリオットの奥様。
 アデルは目を見開いた。 

「だから止めてくれと言っている」

 エリオットの声は固く、尖っていた。

「ごめんなさい」
「怒ってはいない。だが君の言い方はかつての妻に失礼だ。もちろん、アデルにも」

 かつての妻。
 アデルは小刻みに震え続ける身体を抱きしめるだけで精一杯だった。頭を下げて地面につくばかりに俯き、小さく丸まる。
 それから気を取り直した彼らが交わす楽しげな会話は既にアデルの耳には届かなかった。
 
(盗み聞きした私が悪かったわ)

 あれから程なくして女性が帰宅するというので二人はベンチから去った。しばらく呆然自失としていたが、使用人に気づかれる前にと気力を振り絞って部屋に戻った。幸い、誰かに気づかれた様子はなかった。窓を閉めると、ベッドに腰かけてうなだれた。

(彼女が恋人かどうかは分からない。けれどエリオットにはかつて奥様がいらっしゃった。それに他の方からしたら今のこの状況はやはりエリオットに無理を強いているんだわ)

 どれだけの時間が経ったか、寝室の扉が開けられる音にアデルはのろのろと視線を上げた。

「ずっと寝室にこもっていると聞いたが、気分が悪いのか?」

 そこには心配した様子を隠そうともしないエリオットが立っていた。

「あ……」

 ふと窓に視線を送ると、夕暮れが近づいていた。
 アデルはふるふると首を横に振った。

「ううん、大丈夫。心配かけてしまったならごめんなさい」
「ならばいいが……熱はないか?」

 エリオットが室内に入ってきてアデルの額に手を伸ばした。その動きで、ふわりと柔らかい香りが漂った。

(あの人の――)

 思ったと同時に、ぴたりと彼の冷たい手が額に押し当てられる。

(あの人の、香り――……)

『かつての妻に失礼だ』

 びくんと震えアデルの身体が硬直した。

「どうした? 熱はないようだが」

 心配そうに顔をのぞきこまれ、アデルは我に返った。

「ううん、なんでもない。やはりちょっと体調が悪いのかも。今夜は早めに休むわ」

 頷いたエリオットが額から手を離した。

「もし気分が悪いのではないなら、何か食べやすいものを運ばせよう。」

 彼はいつもと同じように、親切で優しかった。
 その優しさがアデルには身を切るように辛く感じられた。

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