紫の香りに愛されて ゆきずりのコンサルタントに依頼したのは溺愛案件なんかじゃなかったんですけど
 ゲートまで走ったところでようやく追いついた。
「すみません」
 助手席の窓をノックしたのに、男は窓を開けようとしない。
 運転席の窓を開けて駐車券を機械に入れている。
「お願いです。開けてくれませんか」
 バーが上がって発進しようとする車の前に、私は飛び出した。
 急停止した車の中であの男が私をにらみつけていた。
 私は思いっきりボンネットに両手を叩きつけた。
「お願いです。話を聞いてくれませんか」
 男はうんざりしたような顔で運転席の窓を開けると半分顔を出しながらため息をついた。
「わざとぶつかって賠償請求でもしようっていうんですか。たいしたお金にはなりませんよ。ドラレコに記録されてますから」
 焦っているのは私だけ。
 落ち着き払った態度が憎たらしい。
 無理だと分かっていても、私は手で車を押し止めた。
「そんなつもりじゃありません。話を聞いてほしいんです」
「手垢をつけないでもらえますかねえ。コーティングしてあるとはいえ、洗車の手間が無駄なので」
「すみません」
「どいてもらえますか。後ろから来たら迷惑になるんで」
 まだ次の車は来ていない。
「私を乗せてください」
「これはタクシーじゃありませんよ」
「お願いです」
 と、そこへ駐車場の係員が様子を見に来た。
「あれ、紗弥花お嬢様ではありませんか。いったいどうなさったんですか。事故ですか?」
 私は車から一歩下がって胸の前で両手を振った。
「いえ、違います。何でもありません」
「トラブルでしたら、ビデオの映像で確認できますけども」
「いえ、本当に大丈夫なんです。ご心配をおかけしてすみません」
 面倒を避けるように、男が親指で助手席のドアを指す。
「乗って」
「はい、ありがとうございます」
 これ以上係員に怪しまれて上に報告されたら困るのは私も同じだった。
 なるべく友好的な雰囲気を醸しつつ、丁寧にお礼を述べて私は助手席に乗り込んだ。
 なぜか車は発進しない。
 前を向いたまま、わざとらしく丁寧な口調で彼がつぶやいた。
「シートベルトを締めてください。運転者の責任になるので。これでも法律には詳しいのでね、弁護士ですから」
「あ、はい、すみません」
 左肩のあたりに手をやっても金具が見つからない。
 もたもたしていると、久利生さんが私に上体をかぶせてベルトを引っ張ってくださった。
 なんと言ったら良いのか、初めての香りがした。
 たぶん、これが男の香りなんだろう。
「すみません。ありがとうございます」
 留め金具を渡されたのに、焦ってしまってうまくバックルにはまらない。
 久利生さんが親指で押してカチリとはめてくれた。
 こんなことすらできないんだ、私。
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