紫の香りに愛されて ゆきずりのコンサルタントに依頼したのは溺愛案件なんかじゃなかったんですけど
「とにかく、明日は中止にしてもらおう」
 玲哉さんがスマホに返信を入力している。
 私はとっさに玲哉さんの袖をつかんだ。
「心配するな」と、こわばった微笑みが返ってくる。「俺が東京へ行く用ができたとでも言っておけばいいだろう」
 言い過ぎてしまった言葉を取り消すことはできなくて、上書きするしかないのに、その言葉が出てこない。
 黙ったままの私をその場に残して、玲哉さんは困惑した表情のまま夕食をテーブルに並べ始めた。
 気まずい沈黙に針を刺すように、食器の音がやたらと耳につく。
 謝りたいのに謝れなくなってしまった。
 それなのに、私の口から出てきたのは、自分自身全く想像もしていない言葉だった。
「私、実家に帰ります」
 玲哉さんがテーブルに置こうとしていたお皿から唐揚げが転がり落ちる。
 いつもちゃんと私の帰宅時間を見計らって揚げたてを出してくれる人。
 前の晩から漬け込んでしっかりとしみた下味がじゅわっとあふれ出る肉汁と絡み合って、香ばしい波が口の中いっぱいに押し寄せてくる玲哉さんの唐揚げ。
 そんな元気が出る夕食を用意してくれる人なのに、どうして私はありがとうもごめんなさいも言えないんだろう。
「紗弥花、待て」
 私は逃げ出していた。
 財布の入ったショルダーバッグをつかんで走り出していた。
「さや……!」
 振り向いちゃだめ。
 ここにいてはいけない。
 作業着姿のまま玄関を飛び出し、すっかり暗くなった街を駆け抜ける。
 家路につく人たちの流れを遡るように駅へ向かい、ホームに入ってきた上り電車に飛び乗った。
 鞄の中に手を入れると、四つ折りにした薄い紙が触れる。
 プロポーズされた時に渡された玲哉さんの署名だけが入った離婚届だ。
 ――ビジネスは常にフェアでなければならない。
 そうね、あなたの言うとおりだったわ。
 さよなら、冷徹な経営コンサルタントさん。
 ほとんど乗客のいない東京行きの快速車内で、私は立ったまま窓に映る自分の顔をじっとにらんでいた。
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