紫の香りに愛されて ゆきずりのコンサルタントに依頼したのは溺愛案件なんかじゃなかったんですけど
 洗面台で簡単に下着をもみ洗いしていたら、鏡の前に置かれた歯ブラシが目に入った。
 一本だけ。
 一人暮らしだから当たり前。
 でも、当たり前が、当たり前なのかな。
 なんだか、いちいち気にしてしまう。
 そういえば、私、全然考えてもいなかったな。
 玲哉さん、おつきあいしてる人いるのかな。
 もしかして既婚者?
 ベッドは一つだけどキングサイズで一人で寝るには広すぎるし、冷蔵庫の食材だって、多すぎるような気もする。
 独身だとしても、おつきあいしている人がいたっておかしくない、というか、いない方がおかしいよね。
 弁護士で有能な経営コンサルタント。
 悔しいけど、経済誌の表紙を飾りそうなくらい見た目もいいし、肩幅の広い体つきも鍛え抜かれていた。
 それに、昨日のあんなことだって……。
 どう考えたって、女の人のことをよく知ってるに決まってる。
 比べられちゃったら、私なんて物足りなかっただろうな。
 どうせ、ただもてあそばれただけ。
 その他大勢の獲物の一人としてすぐに忘れ去られてしまうんだろう。
 今さら気づいたって遅いのに。
 はしゃいじゃって馬鹿みたい。
 世間知らずで経験のない愚かでだまされやすい女が自分から罠に飛び込んでいって怪我をしただけ。
 べつにそれでいいと思ってそうしてくれってお願いしてその通りになっただけなのに、なんか……、なんだか、今さら悲しくなってきた。
 いったん疑念が沸き起こると、せっかくシャワーで温まったばかりの体の奥が震え出す。
 女性の洗濯物のことまで気をつかってるってことは、それなりに深い関係だってことなんだろう。
 もしかしたら、ここに来るかもしれない。
 鉢合わせなんかしたら玲哉さんに迷惑だろうし、相手の人にも軽蔑されるだろうな。
 ――なんで?
 どうして?
 正面の鏡の中で私が泣いている。
 なんで泣いてるの、私。
 泣いちゃだめ。
 泣いたりしたらだめ。
 昨日は悔しくてこらえていたけど、今は悲しくてこらえきれない。
 私、玲哉さんのことを……。
 ホント、馬鹿な女。
 ほんの思いつきだけで、馬鹿なことしちゃって。
 今さらなんで本気になんかなってるのよ。
 コーヒーにミルクを入れるかどうかすら知らなかったくせに。
 朝ご飯なんてごちそうになってないで、早くここを出なくちゃ。
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