紫の香りに愛されて ゆきずりのコンサルタントに依頼したのは溺愛案件なんかじゃなかったんですけど
◇
駐車場に戻った頃には、雨粒が大きくなって、アスファルトはすっかり雨に染まっていた。
車に乗り込むと、フロントガラスが雨でにじんでいく。
「有意義な視察だったな」と、玲哉さんが胸ポケットからハンカチを出して私に差し出す。
「私も最後に来た時のこと、すっかり忘れてたんですけど、いろいろ分かって良かったです」
ラベンダーの香りのするハンカチで、顔についた滴を拭かせてもらった。
なんだか記憶を呼び起こすような香りだ。
「入院した祖父に薔薇の絵を描いて見せたって話したじゃないですか」
「ああ、今朝のあの話か」
「あの時は実際にここに見に来たわけじゃなくて、思い出を絵にしたんですよね。本当はそのころはもう薔薇なんか咲いてなかったんだと思います。私、祖父に嘘の絵を見せてたんですね」
ハンカチを返すと、それをじっと見つめながら玲哉さんがつぶやいた。
「それは嘘じゃない」
――え?
「絵画というのは、写真と違って写実的であれば良いというだけではないだろう。画家が見せたいものを描くんだ。鑑賞者の心に映ってほしい光景を描くんだ。君は昭一郎さんに薔薇の咲いている風景を見せたかった。その風景は君の心の中に間違いなくあったんだ。そして、それは昭一郎さんの心にも同じ風景があったんだ。君の気持ちはちゃんと届いたんだよ。それが絵画の力だ」
そうか。
あれで良かったんだ。
ずっと心を覆っていた霧が晴れていくようだった。
ハンカチを胸ポケットにしまうと、玲哉さんが助手席の私に微笑みかけてくれた。
「紗弥花、これからまた、君の心の中にある風景をみんなに見せるんだ。受け止めてくれる人は必ずいる。その夢をみんなに届けるにはどうすればいいかを考えるんだ」
玲哉さんの熱が私に伝わる。
心が躍り出す。
私の絵、玲哉さんの言葉、人に伝える方法はそれぞれでも、ちゃんと気持ちが伝われば心が熱くなるんだ。
「はい」と、私はしっかりとうなずいた。「玲哉さんも手伝ってくださいね」
「ああ、もちろんだ」
シートベルトをつけようとした時、玲哉さんがまだじっと私のことを見ているのに気づいた。
視線を合わせると、ふっとごまかすようにステアリングに手を置いて前を見つめる。
「なあ、怒ってないか」
「どうしてですか?」
なんだろう。
何も思い当たることなんかないし、逆に、私の方がなんか悪いことしちゃったかな。
「初めてのドライブデートなのに、キスの一つもしてやれなかったからさ」
そう言ってエンジンをかけた玲哉さんの耳が真っ赤だ。
デートって……。
ちゃんとそう思っててくれたんだ。
「じゃあ、今してください」
私は目を閉じて唇を突き出した。
「小学生か」
ムッ……。
なによ、自分から言っておいて。
思わず口が曲がる。
「アヒルか」
プクッ!
「フグか」
もう、じらさないで!
「妻です。あなたを世界で一番愛してる妻ですよ」
「知ってた」
玲哉さんの手が私の頬を優しく撫で、唇が重なる。
誰もいない駐車場で、雨の音に包まれながらお互いを求め合う。
どれくらいの時間が過ぎたんだろう。
目を開けると、玲哉さんが照れくさそうに鼻の頭をかいていた。
「次は遠慮するなよ。俺にはいつでも言っていいんだぞ。与えられるばかりじゃなく、求めることだって練習が必要なんだからな」
すぐにコンサルタントの顔に戻っちゃうんだから。
もう少しだけ、私だけに見せる表情でいてほしいのに。
だけど、いつまでもそんな甘い雰囲気に浸っている場合ではなかった。
そのころ真宮ホテルでは、失踪した私をめぐって、とんでもない騒ぎが起きていたのだ。