紫の香りに愛されて ゆきずりのコンサルタントに依頼したのは溺愛案件なんかじゃなかったんですけど
「まあいいや。僕はこれをいただくよ」
 和樹さんはウィスキーのグラスを持ち上げながらソファに座り、隣を私に勧めた。
 ためらっていると、手が伸びてきて引っ張られそうになったので、私は自分からソファに腰を下ろした。
「紗弥花さん、僕はずっとあなたが好きだった」
 距離を保とうとしても、男が肩に手を回して大蛇のようにまとわりつこうとする。
「昨日はここで君と初めての一夜を過ごすはずだったんだ。僕たちはもう十年も前から、この日のために約束してきたんじゃないか」
 何を言ってるの、この人。
 全然言葉が頭に入ってこない。
 そんな約束したことなんて絶対にないし、単なる知り合い以上にこの人を意識したこともない。
 それは母が勝手に決めたこと。
 私の意思なんか関係なく、会社のため、家のために決められたこと。
 ――だけど、私はこの人の言いなりにならなければならないんだ。
 男が残りのウィスキーを一息にあおり、グラスをテーブルに置く。
「さ、あっちへ行きましょうか」
 ふらつきながら立ち上がった男がベッドルームを指す。
 ――嫌。
 気持ち悪い。
 嫌悪感が噴き上げてくる。
 本能が吐き気を催していた。
 私はもう知っているの。
 本当に大事な人が誰なのか。
 だけど、この人じゃない。
 こんな人なんかじゃない。
 絶対に違う。
 なのに、恐怖で声が出ない。
 私の声を押さえ込むように、心の中に声が響き出す。
 口答えをするな。
 言われたとおりに従え。
 おまえの気持ちなど聞く必要はない。
 指示に従いなさい。
 私はハンドバッグをぎゅっと抱きかかえた。
 消えて。
 お願いだから消えて。
 こんな声、聞きたくない!
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