紫の香りに愛されて ゆきずりのコンサルタントに依頼したのは溺愛案件なんかじゃなかったんですけど
「だ、だが、僕だけを悪者にしようとしたって、そうはいかないぞ。お、おまえだって依頼人である僕を裏切ったじゃないか。僕の婚約者を奪い取って無理矢理結婚したくせに。僕もおまえらを訴えてやる!」
「まあまあ、和樹さん」と、母が間に入る。「それはなかったことにいたしますから……、なにとぞ穏便に」
 玲哉さんがそんな二人の様子を見て鼻で笑う。
「結婚? 何のことでしょうか」
「言い逃れするつもりか。紗弥花さんが言ってたぞ。夫婦になったって」
「これのことですか」
 玲哉さんは私に微笑みかけながら一歩退くと、スーツの内ポケットから四つ折りの紙を取り出して広げた。
 私たちの名前が記入された婚姻届だ。
 え、ちょっと……。
「なっ、ど、どういうことなんだ?」
 和樹さんまで驚いているけど、私の方が叫んでしまいそうだった。
「たしかに二人で署名はしましたが、役所に行く暇がなかったので、まだ提出していなかったんですよ。だから私たちは夫婦ではありません」
 あっ……。
 そういえば、そうだ。
 署名しただけで結婚が成立してたと思ってたけど、すぐに千葉の薔薇園に向かったから、確かに二人で区役所に提出に行く時間はなかったっけ。
 なんだ、舞い上がってたのは私だけだったんだ。
 私、やっぱり、お花畑のお嬢様なのかな。
 でも、そんなふうに落ち込んでいるどころではなかった。
 玲哉さんが取った行動は、予想のはるか斜め上だった。
「お望みなら、こうして」と、玲哉さんは婚姻届を破り始めた。「破棄しますよ」
 ――あっ!
 四つ折りにした婚姻届をためらいもなくびりびりとこなごなに破る。
 宮村さんがまるで手品師の助手のようにゴミ箱を差し出すと、玲哉さんは紙くずとなった婚姻届をあっさり捨ててしまった。
「つまり、私は依頼人であるあなたを裏切ってはいません。あなたが勝手に不法行為を働いただけです」
 和樹さんも呆然としていたけど、それは私も同じだった。
 なんで……、どうして?
 破いちゃうの?
 せっかく二人で誓い合ったのに。
 ちゃんと照れながらプロポーズしてくれたのに。
 本当は結婚する気なんかなかったの?
 私はただのゲームの駒として使われただけなの?
 やっぱり、嘘は嘘だったんだ。
 つむじ風にあおられるのぼり旗みたいに気持ちが翻弄されて、もう、何が本当で、何を信じたらいいのか、さっぱり分からない。
 署名した婚姻届まで破り捨てて。
 むしろゴミ箱から炎でも上がってくれた方がタネのある手品で良かったのかもしれない。
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