紫の香りに愛されて ゆきずりのコンサルタントに依頼したのは溺愛案件なんかじゃなかったんですけど
「ああ、いったい、どうしたらいいの」
 膝から崩れ落ちた母に寄り添ったのは父だった。
「もういいから。あきらめなさい」
「だって、あなた……」
 涙がこぼれ落ちる目で母は私をにらみつけていた。
 ――どうして?
 どうしてそんな目で見るの?
 言いなりにならなかった娘がそんなに憎いですか?
 会社や家のために犠牲にならなかった私はあなたの娘にふさわしくないんですか?
 ――やっぱり、だめなんだ。
 手を伸ばせば触れあえる距離なのに、母との間には超えられない溝がある。
 そしてそれはますます深くなるばかりだった。
 山火事が消えてしまったかのように静まりかえったインペリアルスイートで、宮村さんから解放された玲哉さんが落ち着きを取り戻してスーツのほこりを払う。
「あんなやつ、警察に突き出してやりたかったんだが」
「もう、いいですよ」と、私は玲哉さんの腕にしがみついた。「私も関わりたくないですから」
「そうだな。危険な目に遭わせてすまなかった」
「それより、婚姻届が……」
 わたしは、本気だったんですけど。
 もう一度、署名してくれますか?
「ん?」と、玲哉さんはスーツの内ポケットに手を入れた。「これのことか?」
 ――あれ?
 出てきたのは、さっき破ったと思った婚姻届だった。
 ちゃんと私たちの署名もある。
「手品?」
「べつになんてことはない」と、玲哉さんは冷静な態度で私に手渡した。「最初から偽物を用意しておいて、わざと大げさに破いてみせただけだ」
 へえ……、そうだったんだ。
 ほっとして力が抜けてしまった。
「こうなると予想して準備しておくなんて、すごいですね」
「たいしたことじゃないさ。言っただろ。書類ならなんでも用意してあるって」
 横で高梨さんが笑いをこらえている。
 なんだろう。
 何か変なことあったっけ?
 ――えっと……。
 あ、もしかして。
 私は奇妙なことに気がついた。
< 71 / 118 >

この作品をシェア

pagetop