紫の香りに愛されて ゆきずりのコンサルタントに依頼したのは溺愛案件なんかじゃなかったんですけど
「そういえば、さっき破った方にもちゃんと私の名前が書いてありましたよね。あれは誰が書いたんですか?」
 今思えば、私の筆跡ではなかったような気もする。
「そうだったか?」と、玲哉さんが急に視線をそらした。
「ありましたよ。だから私もてっきり本物だと思ってガッカリしたんですから」
「まあ、それは……だな。あれだ」と、玲哉さんが口ごもる。「俺が書いておいたんだ。まあ、本物らしく見せかけないとな。敵を欺くにはまず味方からとも言うし」
 高梨さんがこらえきれずにおなかを抱えて笑い出す。
「どうせ、紗弥花さんの名前が自分の名字と合うかとか、ドキドキしながら練習してたんじゃないんですか。そんな恥ずかしい証拠を残しておけないから、都合良く破り捨てただけでしょうよ」
 ――はあ?
 眉をつり上げ、耳を真っ赤にしながら玲哉さんが首を振る。
「そんなわけあるか。姓名判断というか、名字と名前のバランスがどうかなと、ほら、名字も名前も三文字ずつだから記入欄にちゃんと書けるかとか、いろいろ心配するだろ。事前の準備はなんであれ大事だからな」
 結局、書いてたんじゃないですか。
 でも、じゃあ、玲哉さんはあのときの流れでいきなりプロポーズしたってわけじゃなくて、私と一夜を過ごしている間にちゃんと考えてくれてたってことなの?
 冷徹なコンサルタントの仮面の下で、ずっと、ドキドキしてくれてたんだ。
「意外と乙女なんですね」
 お花畑の私でも名前が合うかなんて考えなかったな。
「違うと言ってるだろう」
 頬まで赤く染まってますけど。
「でも、良かったです。本当に破いたんじゃなくて」
「書類が命の仕事だからな。大事な婚姻届をそんなふうに粗末に扱うわけないだろ」
 もっともらしいことを言って、まだごまかそうとしてる。
 後ろで宮村さんまで笑いをこらえてますよ。
「だが……」と、玲哉さんは真面目な表情に戻って人差し指を立てた。「まだ問題が残っている。このまま役所に提出はできない」
「どうしてですか?」
「本人だけでなく、他に証人二人の署名がいるんだ」
 ああ、そうなんだ。
「そこで、お義父さん、お義母さん、こちらにご署名をお願いします」
 玲哉さんはソファセットのテーブルに婚姻届を広げて置いた。
 宮村さん以外のみんながそれぞれソファに腰を下ろす。
 父が胸ポケットから万年筆を取り出しながら宮村さんに飲み物を頼んだ。
「すまないが、コーヒーをみんなに頼む」
「かしこまりました」
「フォームミルクはありますか」と、玲哉さんがすかさずたずねた。
「ございます」と、笑顔で応じる。
「じゃあ、たっぷりで」
「はい、ただいま」
 手際が良く、部屋に備え付けのコーヒーメーカーからさっそくいい香りが漂ってくる。
 その間に父はあっさりと婚姻届の証人欄に署名してくれた。
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