紫の香りに愛されて ゆきずりのコンサルタントに依頼したのは溺愛案件なんかじゃなかったんですけど
「違う!」
 思わず私は叫んでいた。
「……違うの」
 母に口答えするなんてできるはずもないし、感電したみたいに手が震えているけど、もうそんなことはどうでも良かった。
 私は言わずにはいられなかった。
 気持ちよりも先に、声が出ていた。
 そんな私を、母は博物館の奥に展示してあった奇妙な化石が動き出したかのような目で見ていた。
「私が決めたの。私は玲哉さんが好きなの。たしかに知り合ってまだほんの少ししか一緒にいないけど、でも、分かるの」
 この気持ちは幻じゃないし、嘘でも偽りでもない紛れもない本物。
 言葉では説明できないけど、だからこそもどかしいけど、だけどお願い、私の気持ちは本気なの。
 だから……、認めてよ。
 でも、やっぱり母は母だった。
「何も知らないあなたにいったい何が分かるというのですか!」
 怒鳴りつけただけで、私の話など聞いてもくれなかった。
「分かるさ」
 ――え?
 横から口を挟んだのは、私の話に耳を傾けてくれていた父だった。
「人を好きになるっていうのはそういうものだ」と、父は横で見つめる母に微笑みかけた。「私だって、雪乃、君に出会った時にそう思ったんだからな」
 母は急に顔を赤らめて視線を泳がせはじめた。
「あなた、な、何を……」
 ゆっくりとコーヒーを一口すすり、父がふっと笑みを浮かべた。
「一目惚れだったんだよ、私もね」
 父がもう一口コーヒーを含む。
 居合わせたみなが続きを待っていた。
 母だけはピアノを弾いているかのようにせわしなく指で膝をたたいていた。
「あれは今から三十年前、真宮ホテル創立百周年記念パーティーのときだ。私は入社三年目だった。庭園で政財界のお歴々をもてなしていたんだが、庭園の池に鮮やかな錦鯉が浮かんできたんだよ」
 父がチラリと母を見やった。
「君は覚えていないだろうな。それを見た君が、『ほら見て、鯉』と私の腕に絡みついてきてね。隣にいた昭一郎さんと間違えたんだろうが、一瞬で恋に落ちたんだ」
 そんな馴れ初めがあったなんて聞いたことなかったな。
 なんか、聞いてる私の方が照れくさくなってしまう。
「その時はまだ社長の娘だとは知らなくてね。それまでも何度か見かけていたから社員の一人かと思っていたんだが、同僚に教えてもらって絶望的な気持ちになったよ。なにしろ私は学生時代にも女性と交際したことなんかなかったからね。普通に告白するだけでも無理なのに、まして相手は社長の娘じゃ、諦めるしかなかったんだ」
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