紫の香りに愛されて ゆきずりのコンサルタントに依頼したのは溺愛案件なんかじゃなかったんですけど
「私はあなたが社長になりたいのだと思ってましたよ」
 父が力なく首を振る。
「私は決断力のかけらもない男だよ。管理職としては優秀だったかもしれないが、決断のできない性格は経営者に向かないと分かっていたんだ。私は社長になんかなりたいと思ったことはないんだ。だが、自分からそれを口にすることすらできなかった」
 母は父の話を聞いているのかいないのか、両手で冷めたコーヒーカップを包むように持ったまま黙っていた。
 父はそんな母の横顔を見つめると、ほんの一瞬息を止め、静かに続けた。
「だから、もういいじゃないか。頑なになったところで会社は救われないよ。もう私たちにできることなど何もない。新しい出資者を探してもらって、経営を立て直してもらうしかないんだよ」
 弱気な父を母が責める。
「ここまで守り抜いてきた真宮ホテルを投げ出すなんて許しませんよ。筆頭株主はこの私ですよ。私の意向を無視するのですか」
 母の強い口調に負けずに、父もぴしゃりと言い切った。
「ならば私を解任したらいい」
「なっ……」
「私が社長で居続けたら会社はなくなる。ならば私が辞めるしかないんだよ」
 肩の荷を降ろしたように、父の背中が丸まっていた。
 みなに聞こえるようにため息をついた母がつぶやく。
「ずるいですよ。あなただけ逃げて」
 父はすまなそうに目を閉じた。
 声を震わせながら母がたまっていた思いを吐き出した。
「私だって、違う家の娘だったらと何度思ったことか。生まれたときから社長の娘。しかも、海外にも知られた名門、真宮ホテルのお嬢さん。どこに行っても、その名前がついてきて、息もできませんでしたよ。近寄ってくるのは財産か出世目当ての気持ち悪い男ばかり。でも、あなただけは違ってましたよ。あなただけは私をちゃんと見てくれた。だから私もあなたに惹かれたんです」
 でも、と母はいったん言葉を切って細く息をついた。
「あなたは間違ってますよ」
「ああ、そうだな」と、父が目を開いてうなずく。「逃げるのは良くないことだ」
「違いますよ」と、母は泣き笑いのような表情を浮かべた。「覚えてるんですよ。私だって忘れるもんですか」
 一瞬、虚を突かれたように戸惑う父に、母は息を継がずに続けた。
「あれはわざとですよ。間違えたふりしてわざとあなたの袖を引っ張ったんです。そうでもしないと、堅物のあなたを振り向かせるきっかけなんてつかめないと思ってましたから。私も一目惚れだったんですよ。私だってあなたを見ていたんです。私もあなたと結婚したのを後悔したことなんかありませんよ」
 そうか、と父は目尻を下げながら微笑んだ。
「なら、紗弥花のことも……」
 母は言葉をかぶせて甘い雰囲気を断ち切った。
「それとこれとは別です。私は認めませんからね」
 結局、話は元に戻ってしまった。
 お父さんの甘酸っぱい思い出話だけが宙に浮いてしまった。
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