あふれる
店を閉めた愛之助と米は散歩感覚で連れ立って歩き、先ほどの路地以上に美しい紫陽花の咲き誇る小さな公園に着いた。雨は上がり、雲間からあわく広がる陽光に光るしずくが珠を連ねるネックレスのようだった。愛之助は米を公園の入り口にあるたこ焼き屋へ伴った。
「ここのたこ焼き、おいしいんですよ」
小さいときから家事に追われ、祭りにも出かけたことのない米は、うきうきしながらたこ焼き屋のメニューを見つめた。
「ああ、結城の坊ちゃん、いらっしゃい」
たこ焼き屋の老主人と愛之助は知り合いのようだ。
「今日は彼女さんを連れてきたのかい」
主人のからかいに、米は顔を真っ赤にして、ほおを冷やすように両手で押さえた。そんな様子を微笑みながら愛之助は見つめている。彼はたこ焼きを選びながら弾むように答えた。
「親父さん、まあそんなところだよ。かわいいだろ?」
「結城さんったら!」
米は恥ずかしくて、愛之助と主人の戯れを真に受けてしまう。しかし、心の底では愛之助と親密な関係に見られていることがとてもうれしかった。
愛之助はねぎたこ、米はマヨたっぷりたこ焼きを選んだ。あつあつのたこ焼きを手渡されると、ふつうの学生がもつ思い出の味に餓えている米は、今の年になってたこ焼きをごちそうになって子供のように喜ぶことにおかしさを感じつつも、じんわりとしあわせが心に染み入った。さあ食べようと愛之助が言うまで、米はにこにこしながら透明のプラスチックボックスから立ち上る湯気を見ていた。
だが、主人の次の言葉に、たこ焼きを味わう米は少し暗い気持ちになった。
「坊ちゃん、かわいい彼女がいるなんて知れたら、香織ちゃんになんて言われるかわからないよ」
(香織?だれ?結城さんのお友達?女の人?どんな関係?)
嫉妬に似たぬるいため息を吐くおろちが、米の首を絞める。
「……香織に知られたって別にかまわないよ。あいつは僕のことなんて馬鹿にしきっていて、興味なんてないんだから」
爪楊枝でねぎをひとつずつ拾いながら、愛之助は目を伏せる。彼は憎しみと悲しみの入り交じった風をまとっていた。不意に顔を上げ、元のようにおとなの微笑みをたたえる彼は、米を屋根付きのあずまやに誘った。
「さあ、向こうで話をしましょう」
あずまやの周りには、あわい青、紫、白の花びらをレースのようにまとった紫陽花が植えてある。米と愛之助は並んで座った。愛之助の体温まで感じ取れそうに近い位置に腰を下ろした米は、胸が高鳴った。
「あの、結城さん、距離が近いです……」
「嫌ですか?」
「いえ、私はいいんですが、なんだかこの距離だと……」
「恋人みたい?」
 愛之助は余裕たっぷりに意地悪な言葉で米をからかう。経験のない彼女はすっかり彼のとりこだった。
 「いいじゃないですか、周りにどう思われようと」
 ぽつりと愛之助がつぶやいた。
 「いいんですよ、僕たちは僕たちです。僕は、そう思うことにしました。名前が嫌いでも、障がいがあって生きづらくても。僕たちには『源氏』がある。宝物が心の中にある」
 米は黙って聞いていた。
「さっきの親父さんが言っていた女性は、僕の幼なじみです。早川香織といいます。僕と違って秀才で、成績がいい女子生徒でした。僕は高校を中退せざるを得なかったのですが、彼女は進学校の理系に進んで、医者になった。でも僕たちは仲が悪いんです。香織は一方的に僕を馬鹿にしてくるんです。何の恨みがあるのか、僕が聞きたいくらいに執拗ないじめをしてくる。父がつけてくれた名前をからかって、女の子みたいと言ってくるし、中一の頃に僕の方が数学でよい点を取ると、その嫌がらせの言葉は毒をましました。あんたなんか漢字も読めないのに、年賀状も書けないのにと、面と向かって言ってくる。僕は悔しくて悔しくて……。今でもあの悔しさは忘れません。それで、なんとか漢字交じりの文章を書けるようになって、馬鹿にされた名前も愛の字を鏡文字からきれいな漢字を書けるようになって、年賀状を堂々と香織に出してやろうと心に決めたんです」
 そこまで話すと、愛之助は深いため息をついた。
「わかっているんです。こんな恨みの気持ちを募らせて文字を練習しても、ちっとも楽しくない。だから、なにか好きなことと学ぶことを絡めようと思いました。香織がたいくつだと言ってうちの店で投げ出した児童向けの『源氏』があったのですが、ひらがなが多くて言葉遣いもやさしくて、僕には最適でした。そこから『源氏』の世界に目覚めたんです。源氏の君は僕と違って文も上手に書けて、学問もできる。彼がうらやましかった。だから、この『源氏』をいつか原文で読めるようになろうという目標を持って、『てらこや』に入ったんです」
 彼はふっと笑った。
「文字が書けるようになったのも、『源氏』の素晴らしさに感動できたのも、いじめっ子のおかげだなんて、なんだかおかしいですよね。田村先生に話していたら、気持ちが整理できました。ありがとうございます」
 米もぽつりぽつりと話し出す。
「私には、父がいません。昔母と私を置いて出て行ってしまって。結城さんのお名前、お父様がつけてくださったんですね。お父様の愛情を感じるいいお名前ですね。私の名前なんか、父が母への嫌がらせでつけた古くさい名前で、嫌で嫌でたまらなくて……」
 彼女は肩をふるわせた。涙がぽろぽろとあふれだす。
「名前で憎い父とつながっていると思うと、自分の存在自体がいとわしいんです。『源氏』は素晴らしい作品ですが、ヒロインの名前がみんな美しくて、上品で、私もそんな名前がほしかった……」
 黙って聞いていた愛之助が、米の手を取った。
「田村先生。いえ、米さん。米と言う名は、命を長らえるための糧の名です。糧がなければ人は生きていけない。僕には、糧が必要です。米さんは、僕にとって必要な方です。米さんは、僕に生きる夢を与えてくれた。文字を書けるようになることが、どれだけ僕の人生に意義をもたらしてくれるかわからない。ありがとう、米さん」
「結城さん……」
「愛之助です」
愛之助は、米を抱きしめると、彼女のしっとりとした黒髪に唇を落とした。米は、目を閉じて愛之助の胸に体を預けた。
孤独なふたつの魂は、むらさきの露が匂い立つ夢のような世界で結びついたのだった。
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