あふれる
3 昏倒と別れ
恋に落ちた後の週末、ふたりは誘い合って書店に向かった。米は、新しい教材を作ったのだが、それは『源氏』以外の名作にも触れて欲しい彼女が愛之助のために考えた「世界の名作本棚」だった。まずはひらがなで、それから漢字で世界の名作のタイトルだけを綴っていく。この「タイトルだけ」の本棚を作ることで、『源氏』の次に読むいつかの本―ー夢の本棚を作るのだ。
果たして愛之助はとても喜んでくれた。そして二人は、「てらこや」の終わった後の週末に、デートをかねて、街の大型書店に向かったのだった。
書店のエレベーターで最上階に上がると、人文書コーナーの近くに理工書や医学書のコーナーがあった。それに気にとめず通り過ぎようとする米は、医学書コーナーの方からカツカツとヒールの音を響かせて歩いてくる派手な茶髪の美女に気づかなかった。
「あら、愛之助。久しぶりね」
高慢そうな高い声に米が振り向くと、愛之助と背の高い女性が対峙している。二人の間にはぴりぴりした空気が漂っている。
「なんだよ、香織。また突っかかるのか?」
「あんたが書店にいるなんてめずらしいわね。漢字が読めないあんたが」
早川香織だ。
「香織さん!」
米は割って入った。いつもおとなしい米が声を荒らげる様に、愛之助は驚いたように彼女を見つめ、香織はたじろいだようだが、すぐに喧嘩の体勢をとる。
「あなた、誰?なれなれしく私の名前を呼ばないで」
「私は、田村米といいます。愛之助さんの友人です」
「愛之助……さん?」
香織は憎悪に満ちた声で米を脅す。
「あんた、何者か知らないけど、愛之助となれなれしくしないで。この人は、私のおもちゃよ。私だけの」
「何がおもちゃだよ」
低い、怒りに満ちた声でつぶやくと、愛之助が米の手をとった。
「米さんは、僕の彼女だよ。そして僕に、漢字の書き方を教えてくれたんだ。僕らはいっしょに『源氏物語』にひかれている。いつかふたりで『源氏』を読みこなす。それだけじゃない。世界の名作を読むんだ。僕の店にも世界の古典を並べる。僕らには夢がある。だがおまえはどうだ?いつも僕につっかかるだけだ。僕をからかって遊ぶことしか関心が向かないなんて、哀れだよ」
香織はぐっと言葉に詰まる。茶色のまとめ髪をさっとなおすと、彼女は、
「勝手になさい!あんたたちはお似合いよ!」
捨て台詞を吐いて立ち去ろうとした。そのとき、米は愛之助の異変に気づいていた。
「愛之助さん、どうしたの?」
激高した彼は視線が定まらず、ふらふらと倒れ込んだ。米は彼を抱き留めようとしたが、鍛え上げ大柄な彼の身体を支えきれず、いっしょに倒れ込む。
そのとき、女性の両手が彼らを支えた。しっかりと愛之助と米が転倒しないように抱きかかえるその人物、香織だった。
「愛之助さん!」
米の悲痛な叫びが店内に響く。彼女はなにが起きたのかわからなかった。ただ、愛之助の蒼白な顔を見つめることしか出来なかった。
「しっかりしなさい、米さん」
香織が愛之助のぐらつく体勢を支え、米を励ます。
「愛之助、力が入らないの?私の手を握ってみて」
愛之助は左側の顔面を引きつらせたまま、香織の手を握ろうとしたが、力が入らないようだ。左半身が麻痺しているようだ。
「吐き気がする……」
「愛之助、今から私の病院に運ぶわ。大丈夫よ、よくなるから」
香織が力強く言う。そして、集まってきた店員に的確に救急車を呼ぶ指示を出す。騒ぎの仲、愛之助は、泣き出しそうな米を見つめた。やさしい光が目に宿り、いつもの温かい微笑みで彼女を癒す。
「すぐよくなります。病院に行ってきます。僕が帰ってきたら、また漢字を教えてください。僕は、いつも自分の名前を漢字で書けるように練習しているんですよ。いつか年賀状も書いて……『源氏』を読んで……僕は、命の糧の名を持つあなたと、夢を糧にして生きていきたい……夢が……あふれる……」
そこまで話すと、彼は意識を手放した。米は必死に愛之助の名を呼んだ。
「愛之助さん!しっかりして!」
救急隊が到着した。担架で運ばれる彼を見て、米は救急車に同乗することを決めた。
「香織さん、私も病院に行きます」
「そう。きっと愛之助は急性の脳疾患よ。詳しく診るために、うちの病院の救命センターに運ぶわ。大丈夫よ」
香織は力強く言った。彼女は心からの悪人ではないらしい。愛之助に喧嘩をしかけるのも、何か理由があるようだ。
米は救急車に乗り込み、愛之助の手を握った。その手はほのかに温かく、米の不安をほどいてくれるようだった。
果たして愛之助はとても喜んでくれた。そして二人は、「てらこや」の終わった後の週末に、デートをかねて、街の大型書店に向かったのだった。
書店のエレベーターで最上階に上がると、人文書コーナーの近くに理工書や医学書のコーナーがあった。それに気にとめず通り過ぎようとする米は、医学書コーナーの方からカツカツとヒールの音を響かせて歩いてくる派手な茶髪の美女に気づかなかった。
「あら、愛之助。久しぶりね」
高慢そうな高い声に米が振り向くと、愛之助と背の高い女性が対峙している。二人の間にはぴりぴりした空気が漂っている。
「なんだよ、香織。また突っかかるのか?」
「あんたが書店にいるなんてめずらしいわね。漢字が読めないあんたが」
早川香織だ。
「香織さん!」
米は割って入った。いつもおとなしい米が声を荒らげる様に、愛之助は驚いたように彼女を見つめ、香織はたじろいだようだが、すぐに喧嘩の体勢をとる。
「あなた、誰?なれなれしく私の名前を呼ばないで」
「私は、田村米といいます。愛之助さんの友人です」
「愛之助……さん?」
香織は憎悪に満ちた声で米を脅す。
「あんた、何者か知らないけど、愛之助となれなれしくしないで。この人は、私のおもちゃよ。私だけの」
「何がおもちゃだよ」
低い、怒りに満ちた声でつぶやくと、愛之助が米の手をとった。
「米さんは、僕の彼女だよ。そして僕に、漢字の書き方を教えてくれたんだ。僕らはいっしょに『源氏物語』にひかれている。いつかふたりで『源氏』を読みこなす。それだけじゃない。世界の名作を読むんだ。僕の店にも世界の古典を並べる。僕らには夢がある。だがおまえはどうだ?いつも僕につっかかるだけだ。僕をからかって遊ぶことしか関心が向かないなんて、哀れだよ」
香織はぐっと言葉に詰まる。茶色のまとめ髪をさっとなおすと、彼女は、
「勝手になさい!あんたたちはお似合いよ!」
捨て台詞を吐いて立ち去ろうとした。そのとき、米は愛之助の異変に気づいていた。
「愛之助さん、どうしたの?」
激高した彼は視線が定まらず、ふらふらと倒れ込んだ。米は彼を抱き留めようとしたが、鍛え上げ大柄な彼の身体を支えきれず、いっしょに倒れ込む。
そのとき、女性の両手が彼らを支えた。しっかりと愛之助と米が転倒しないように抱きかかえるその人物、香織だった。
「愛之助さん!」
米の悲痛な叫びが店内に響く。彼女はなにが起きたのかわからなかった。ただ、愛之助の蒼白な顔を見つめることしか出来なかった。
「しっかりしなさい、米さん」
香織が愛之助のぐらつく体勢を支え、米を励ます。
「愛之助、力が入らないの?私の手を握ってみて」
愛之助は左側の顔面を引きつらせたまま、香織の手を握ろうとしたが、力が入らないようだ。左半身が麻痺しているようだ。
「吐き気がする……」
「愛之助、今から私の病院に運ぶわ。大丈夫よ、よくなるから」
香織が力強く言う。そして、集まってきた店員に的確に救急車を呼ぶ指示を出す。騒ぎの仲、愛之助は、泣き出しそうな米を見つめた。やさしい光が目に宿り、いつもの温かい微笑みで彼女を癒す。
「すぐよくなります。病院に行ってきます。僕が帰ってきたら、また漢字を教えてください。僕は、いつも自分の名前を漢字で書けるように練習しているんですよ。いつか年賀状も書いて……『源氏』を読んで……僕は、命の糧の名を持つあなたと、夢を糧にして生きていきたい……夢が……あふれる……」
そこまで話すと、彼は意識を手放した。米は必死に愛之助の名を呼んだ。
「愛之助さん!しっかりして!」
救急隊が到着した。担架で運ばれる彼を見て、米は救急車に同乗することを決めた。
「香織さん、私も病院に行きます」
「そう。きっと愛之助は急性の脳疾患よ。詳しく診るために、うちの病院の救命センターに運ぶわ。大丈夫よ」
香織は力強く言った。彼女は心からの悪人ではないらしい。愛之助に喧嘩をしかけるのも、何か理由があるようだ。
米は救急車に乗り込み、愛之助の手を握った。その手はほのかに温かく、米の不安をほどいてくれるようだった。