あふれる
愛之助は、米から出されたプリントを受け取ると、ゆっくりと手本をなぞりはじめた。なぞるのは問題ないようだ。次は、手本を見ながら自分でひらがなを書いてみる練習だ。
 「先生、ちょっとむずかしいことに挑戦したいです」
米は用意してきたプリントを手に取ったが、あることをひらめいた。そして、自分の神経質でこまかな文字をできるだけのびのびと書くように気をつけながら、プリントの裏の白い面に手本を書き、愛之助に手渡した。手渡す瞬間、彼らの指は触れあった。愛之助の指先は、ふわりとあたたかい空気をまとっていた。それが、初夏のこもりかけた熱気を増すのではなく、むしろ米にはさわやかな緑の息吹を思わせて心地よかった。
 「新しいお手本ですね。あけまして……おめでとう、ございます」
 愛之助はゆっくりと読んだ。彼はうれしそうだった。米は、彼が年賀状を書きたいと言っていたことを思い出してこの手本を書いたのだ。出会ったばかりの二人の心は、いつのまにか少しずつ打ち解けていた。
 新しい手本は、慣れた文と違って、愛之助には少しむずかしいらしい。彼は丁寧に濃い紫色のシャープペンシルで文字を書き連ねていくが、ところどころ鏡文字が混じる。ぎこちないひらがなの書き方だが、彼が相当な練習をしてここまでたどりついたということは、米にもなんとなく理解できた。
――若紫みたい。
『源氏物語』を愛する米は、自分の書いた手本を練習する愛之助を見ながら、源氏の君の書いた文(ふみ)を手本に文字を練習した少女時代の紫上を思い出していた。若紫の君。米は、ひそかに愛之助の端正な横顔にそう呼びかけていた。
 「できた。できましたよ、田村先生。新しいお手本が書けました」
 鍛えているらしい小麦色の体をかすかに揺らし、若紫の君--愛之助は全身で悦びを表現した。ぐっと軽くこぶしを握り、小さくガッツポーズをとる彼の笑顔は、老成して落ち着いた雰囲気と少年のような若々しさが混じる独特の魅力を放っていた。
 「すごい!やりましたね、結城さん」
 米は心から愛之助をほめた。発達障がいの特性は人それぞれだが、チャレンジドとしてその症状を乗り越えるために、本人はたいへんな努力を重ねる。愛之助もまたそうだったのだろう。自分がたやすくできることを基準に他人を評価してはいけない。持ち味や正確を生かし、生まれ持った才能を伸ばす手伝いをすることが大切なのだ。米は教師論の講義よりもはっきりと思い知った。
「てらこや」の経験は、確実に米の未来の養分になりつつあった。常に後ろ向きで悪い方にものごとをとらえがちな彼女は、愛之助の授業をきっかけに、前向きな思考が芽生えるのを感じて心が弾んだのだった。
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