あふれる
「ただいま」
米は暗い玄関で誰に聞かせるともなくつぶやいた。狭いマンションの一室が彼女の実家だったが、誰もいないのはわかりきっていた。だが、彼女は毎晩ただいまとつぶやくのを習慣にしていた。
米の両親は、彼女が幼い頃に離婚した。単なる性格の不一致だと母は言っていたが、米は祖母から聞いて知っていた。彼女が生まれたとき、妊娠中から夜の街に通い詰め、母から心の離れていた父が、浮気をなじる妻への嫌がらせのつもりで娘に「米」と老女のような時代がかった名前をつけたこと。そして、母が退院したときには離婚届の用意をしていたこと。彼は、浮気相手と出て行った。母娘は捨てられたのだ。
米は、その話を聞いたとき、自分が女手一つで自分を育ててくれた母の重荷になっていると自責の念に駆られざるを得なかった。自分をみごもることがなかったら、母は幸せな人生を歩んでいたかも知れない。米の名前にまつわる過去が生んだネガティブな性格は、同時に彼女の明るい未来へ羽ばたけるはずの翼を折ったのだった。
彼女は、憎い父がつけた名前を嫌った。それは、古風に過ぎる名前の響きだけでなかった。父がつけた名前を死ぬまで名乗り続けること。それは、不倶戴天の敵と永久につながる記号としての役割を果たすのだ。そして、親子と言うよりもこの世を生き抜く同志のような存在の母は、娘を「米」と呼ばない。縮めて「ようちゃん」と呼ぶ。このことを美咲は知っていた。
――若紫の君。あなたはどうしているの。
米は、今日出会ったばかりの愛之助のことを考えながらキッチンに立っていた。毎晩の食事作りは彼女の仕事だ。食品工場の遅番で夜勤をする母の手料理を、彼女は長らく食べていなかった。コンビニでつい「おふくろの味」といううたい文句に惹かれてお惣菜を購入してしまう彼女は、ものわかりはいいが自分の子供っぽい部分を押さえ込むことで苦しんでいる、早く大人になりすぎた少女のままだった。
愛之助に文字の書き方、勉強の仕方を教えるとき、若い教師の卵である米はこの「仕事」に打ち込めた。愛之助がひらがなをうまく書けて喜ぶとき、新しい手本に心躍らせる様子で彼女に笑顔を向けるとき、米は暗いマンションの一室と大学の往復である単調なルーティン、父への憎しみ、不規則なシフトで体を壊しがちな母への過度ないたわり、教職にまつわる悩みなどを忘れることができた。それに、美咲は彼が『源氏物語』が好きだと言っていた。いつもの卒論やゼミ、研究、こうしたアカデミックな場所を離れて、真に王朝文学が好きだと言える場所を欲していた米は、愛之助と『源氏』について語ってみたかった。
真夜中に帰ってくる母のために手早く軽めの夜食を作り、冷蔵庫に入れた米は、自分の夕食を作り始めた。とんとんと野菜を刻みながら、今日目を通した愛之助に関する引き継ぎ事項の書かれた書類のことを思い出す。
彼は古書店の若主人だった。文字が書きづらく漢字が読みづらいという特性の学習障がいのため高校を中退した後は、デジタル端末の文字読み上げ機能や、入力機能に頼りながら事務作業をこなし、店番をして実家の古書店を継ぐ社会人になったのだ。その店名も「結城書店」から「げんじや」と変更したという。
学習障がいを持ちながら『源氏物語』のような古典に関心があるとは珍しい。古典への愛と学習意欲、それから年賀状を出したいといういじめっ子……。
結城愛之助とはどんな青年なのだろう。いつも夏の不快な湿り気のようにまとわりつく苦悩に押しつぶされそうな米は、そんな自分の背中に負った荷物を下ろして軽くしてくれるだけでなく、ゆく道まで示してくれそうな彼のことをもっと知りたかった。
(今度、『源氏』の話を少ししてみよう。結城さんのことをもっと知りたい)
家具はあってもしあわせな明るい空気は「からっぽ」な自室で、惰性でつけているテレビを見つつ、米はわびしい夕食を済ませた。シャワーをあびるために髪をとかしながら、いつのまにか彼女はその黒髪を褒めてくれた愛之助のことを考えていた。
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