きっと会える
これはきっとストーカーではないと思う。うん、きっとそう。
自分にそう言い聞かせるように、香織は歩き出していた。向かう先は香織が通っている喫茶店「フロッグガーデン」だ。
目的はただ一つ。彼と会うこと。会える保証はどこにもない。だって言葉も交わしたこともない相手だし、本当に彼が現れるのか、確証がないのだから。
「今日はどうだろう?」
香織はInstagramを開いていた。
@hiroto.bookcafe
彼のインスタをまたもタップしていた。何度このアカウントを覗いているのだろう。最近では彼のアカウントに挨拶をするのが癖のようになってしまっている。
大翔さんのインスタを意識して見るようになったのは、最近のことだった。インスタを始めて間もない香織だが、彼のインスタには吸い込まれていくようだったことを覚えている。
フォロワー数は三万人。読書アカウントとして開設されている彼のインスタは、人気のアカウントだった。
同じく読書を趣味とする香織としては、フォローするのが当然だった。
三万人。一般人だとしても香織には決して届かないフォロワー数。香織のフォロワー数は百五十二人。天と地の差を感じる両者なのだった。
顔は一切出さない、彼のインスタ。プロフィール欄には「二十六歳 男性」とだけしか情報がない。
インスタの特徴としては、カフェで本を撮影した写真を投稿しているだけ。読んでいる本の趣味も良いし、何よりもカフェの写真が映えるのだ。カフェのテーブルや壁を背景にし、読んでいる本と一緒に撮影する。実にシンプルな写真だが、彼の撮り方が上手いのか、読書アカウントから絶大な人気を集めている。
本のキャプションはサラッと書かれており、このキャプションの量もちょうど良いのだった。長すぎず、短すぎず。丁寧な本紹介で、見ているものを魅了するキャプションがまたも人気の一つだった。香織は何度も彼の投稿から本を購入しているのだろうか。数えたらキリがないほどである。
香織のように魅了されたフォロワーは少なくないだろう。必死にコメントをする者も多いが、彼がそのコメントに返信をすることは一切ない。どの投稿も安定したコメント数を獲得しているが、彼がそのコメントを見ているのかも怪しいほどだった。
顔は出さない。コメントもしない。ダイレクトメッセージは最初から受けつけていない。
それがまた人気の理由なのかもしれないと、香織はそう思うようになっていた。
日本のどこかに彼はいるのだろうが、その存在はシークレット。誰も姿を見たことがないからこそ、女性は彼を追い求めてしまうのだった。
毎日彼の投稿を見ているからこそ、彼のことは多少なりに分かっている。
写真から推測できるのは、何となく彼が甘党だということ。それと彼は一人でカフェに入っている印象だ。写真に写るドリンクが二つだったことはまずない。おそらく、きっと、そうだ。ちゃんと毎日見ているのだから女性の影はないはず。情報を制するのが、恋愛のセオリーなのだと香織は信じていた。
さらに、投稿されているカフェの名前も一切公開してない。だから、彼のフォロワーはどこのカフェなのか、血眼になって探しているのだ。勿論、香織もその一人だ。他のフォロワーさんの情報は早い。その情報によると、彼は関東のカフェに出没することが分かっている。東京や横浜のように都市部のオシャレなカフェを出入りしていることが判明したのだった。女性フォロワーは一喜一憂した。自分の住んでいる地域のカフェに彼が足を運ぶと、コメント欄が賑わいだす。栃木県に住んでいる香織としては、彼がこんな田舎に現れるとは一切思っていなかった。
転機は突然訪れた。東京のカフェ写真が投稿されず、彼の行く先が埼玉県、群馬県、茨城県と、どんどん北関東に向かっていることが分かったのだった。香織が住む栃木県に来るのは、時間の問題。期待していた香織は、より彼の動向をインスタ越しにチェックするのだった。
そして彼が栃木県のカフェに現れた。
香織の慣れ親しんだカフェに彼が現れていたのだった。
それを確認したのは仕事終わりの帰り道。その日に限って、残業が長引き、スマホをチェックする時間すらなかったのだった。
彼の投稿を見て、思わず息を呑む。
そこに映し出された一枚のカフェ写真。それが「フロッグガーデン」だったのだ。
「••••••昨日行ってたじゃん」
後悔ばかりが津波のように押し寄せる。昨日香織が行っていたフロッグガーデン。しかし、彼は香織のいない今日に限って、店を訪れていたのだった。
投稿時間は十時頃。完璧に仕事をしていた時間だった。
写真を見れば驚くことばかり。その写真が映し出すカフェの世界。それはいつも香織が見ている席からしか見えない景色だった。
大翔さんが香織のお気に入りの場所に座っていた。
目の前で起こっていることが現実なのか、香織には分からなくなってきた。
彼と偶然会うことはできなかった。落ち込む香織だったが、次の瞬間に舞い上がっていた。
「お気に入りのお店になった。また行こ」
彼のストーリーにはそう書かれていた。ストーリーの背景は「フロッグガーデン」だ。大翔さんはまた店にくるかもしれない。
再び香織に春がきた。香織の中では桜吹雪が舞い上がる。今は冬だっていうのに。
明日の予定は休みだった。これはチャンスかもしれない。
すると、彼のストーリーがさらにアップされた。
香織は目を疑った。
彼のストーリーには、一人の男性が映し出されていた。
そこに映っているのは、マスク姿の好青年。目と鼻筋が整う男性がインスタ越しに香織を見つめていた。
大翔さんだ。香織はそう確信した。急いでスクショをする。慌ててしまったが、何とか写真に納めることができたのだった。
次の瞬間、大翔さんのストーリーが真っ黒に染まる。
ストーリーが見れなくなり、さきほどのカフェのストーリーしか映らなくなった。
香織の心臓が脈を打つ。時間にして数秒の出来事だった。
大翔さんは顔写真のストーリーを急いで消去したのだった。おそらく何かの手違いで写真をアップしてしまったのかもしれない。
手元のスマホを見つめる。急いで画像フォルダを開くと、先ほどの写真が保存されていた。
私のスマホの中に大翔さんがいる。
そこに映る男性は、想像以上にイケメンだったことはいうまでもない。
翌朝、彼のストーリーを開く。今日のストーリーには「お気に入りの場所に行ってきます」とだけ書かれている。ストーリーがアップされたのは、ほんの数分前だ。香織は妄想を膨らますのをさらに加速した。
「きっと今出たばかりだから、三十分くらいで来るかな?」
いつものカフェへ足を運ぶ。川沿いに店を構えるフロッグガーデン。店の近くには散歩道があり、のんびりとした栃木市の風景を堪能することができる。
「彼とここを歩けたら」
香織の口から零れ落ちてしまった。妄想が膨らんでしまう。昨日はあまり眠れなかった気がする。彼の顔写真を見つめながら、布団に入ったのが失敗だった。脳内にも溢れる大翔さん。その甘いマスクが香織に微笑みかけていた。
天井を見上げながら、香織は自身の鼓動を感じていた。
トクン、トクン。
いつもより早いペースで心臓が動いている。原因は分かっている。彼に惹かれてしまったからだ。
恋愛なんてこの歳になるまでしたことがなかった。恋には興味があった。でも、心惹かれる男性には出会わなかった。告白だって一度くらいされたことはある。それでも、当時の香織には首を縦に振るほど、その男性には魅力がなかったのは事実だった。
それがここにきて、ペースを乱されている。相手はインスタで見つけた大翔さんと呼ばれる男性。実際に会ったことも、話したこともない。
それでも、こんなにも香織の心を突き動かすのはどうしてだろう。
これが恋なんだ。大翔さんが頭から離れなくなっている。
どんな声をしているのだろう。私よりもきっと大きいのだろう。隣に並んだらどうすればいいのだろう。
恋愛経験が乏しい香織には深夜の大パニックなのだった。
そんな大惨事が夜の香織を襲ったが、朝を迎えると急いで動き回っていた。
鏡の前の自分は綺麗だろうか。いつもより入念に化粧をし、もう一人の自分に微笑みかける。
私を見つめる大翔さんは、一体どんな表情をするのだろうか。
怖くないと言えば嘘になる。不安が押し寄せる。それでも、ここで会わないと一生後悔する気がしていた。
「行くよ、私」
香織は一歩踏み出していた。
インスタを小まめにチェックしながら目的地に向かう。
昨日の投稿は十時に投稿されていた。九時を目安に店を目指す香織。
フロッグガーデンに入ると、いつもの席を確保することができた。
昨日、大翔さんが座っていた席に香織は座っている。
何だか、一人だけ抜け駆けしたような気分になっていた。
呼吸を整える。彼はきっと来るはず。
店内から外の様子を伺った。観光客がちらほらと店の外を散策している。大翔さんらしい人は見当たらない。昨日は何度もその顔を確認してきたのだ。間違えるはずがない。
「でも、どうしよう」
今になって不安が押し寄せる。
実際に大翔さんが来たところで、何て声をかける?
「大翔さんですよね? いつもインスタ見てます!」
不自然か? 初対面の相手がそう言ってきたら。
どうすればいいのだろう。緊張するからインスタを開く。
すると、そこには「店に着いた」とだけストーリーに書かれていた。
時が止まる。香織は店内を見渡した。店の中には香織以外にお客さんはいない。
本当に彼が来るのだろうか。胸が動き出している。それは止まることを知らないのか。
「••••••」
来ない。おかしい。ストーリーにはフロッグガーデンが映し出されていた。私が知っているこの店だ。何度も見てきたから見間違うわけがない。
もう一度スマホを覗く。彼のストーリーは先ほどのままだった。
「もう少し待ってみるか」
香織は待つことにした。時間はいくらでもある。彼はまだ外にいるのかもしれない。自分にそう言い聞かせ、香織自身を落ち着かせた。震える手でオーガニックココアを口にした。ほんのりと甘さが香るオーガニックココアだが、どうしてか、今日は味がしない気がする。
それから店内で待ち続けた。文庫本を開いたが内容は一ミリも頭に入ってこない。浮かぶのは彼の顔だ。
「流石に遅い」
待ち続けて一時間が経過してしまった。生きた心地がしない。
再びインスタを開く。すると彼の投稿が更新されていた。
急いでスマホをタップする。彼が投稿するのは本を読み終わってすぐのはずだ。
一枚の写真が香織の網膜に映し出される。
その写真には香織が見ている景色が映し出されていた。
やはりおかしい。彼の写真は香織の席に座っていないと撮影できない写真なのだ。
でも、彼は店内にはいない。店の中にいるのは店員と香織だけなのだ。
「一体どういうことなの?」
もう一度彼の写真に目を移す。レジの近くに時計があるが、写真の時刻は十時十分。現在時刻は十時十五分だから、五分前に投稿された写真なのは間違いない。さらに、レジ下には無農薬野菜が置かれていた。店に来た時、農家の方が大根を持ってきていたのだった。その大根の数も、映し出される角度も香織が見ている景色と一致する。
ではなぜ大翔さんはいないのか?
大翔さんのアカウントのダイレクトメッセージを開く。彼はメッセージの返信はしないが、メッセージを送ることはできるはずだ。香織は初めて彼にメッセージを送ってみることにした。まさかこんな形でメッセージを送ることになるとは。
「突然のメッセージ失礼します。インスタいつも楽しく拝見してます。香織と言います。今日の投稿とストーリーを見て気づいたんですが、大翔さんは栃木県のフロッグガーデンにいますよね?」
嘘は混じっているし、直球すぎたかもしれないが、送信ボタンを押していた。
メッセージが無事に送られた。
すぐに既読がつく。
驚いた。彼はこのメッセージに目を通したのだ。心臓が誤作動している。
既読になってからの「間」が怖い。彼が私のメッセージを見てくれているのだ。普段だったら気分も高揚していただろう。でも、今はそんな気分になれなかった。
文字が入力されていく!
大翔さんが返信をしているのか。ファンに知られたら殺されていただろう。しかし、今はすぐにその返事を聞きたかった。
「よく分かりましたね。フロッグガーデンにいますよ。初めまして」
頭が真っ白になっていた。理解が追いつかない。彼は店にいるらしい。でも、いない。どういうことだ?
「どこにいますか? 赤いコートを私は着ていますが、大翔さん、分かりますか?」
急いでメッセージを送る。またしてもすぐに既読がついた。またも間が生まれる。
「入り口から入ってすぐの席です。右側には暖炉があります。赤いコートの女性は見えませんね、すいません」
天と地がひっくり返った気がした。大翔さんが話した席は、間違いなく私が今座っている席だ。温かい暖炉も右手にある。そして、大翔さんは私のことが見えていないらしい。
私が彼を見えていないのか、それとも彼が私を見えていないのか。そういうことなのだろう。
スマホが通知を知らせてくる。大翔さんからメッセージが続く。
「香織さん、正直に言いますね」
私はスマホから目が離せない。
次の言葉は聞きたくなかった。次の言葉をおそらく予測してしまっている自分がいるのだろう。
「僕、実はもう死んでいるんですよ」
彼の言葉が頭から離れなくなった。
「ごめんなさい。こんなメッセージで困惑してますよね?」
続けて大翔さんがメッセージを送ってくれた。
私はまだ混乱していた。彼は死んでいる。でもメッセージのやりとりはこうして香織と行っているではないか?
ココアに手を伸ばす。香織の右手は小刻みに震えていた。その手でココアを一口。どうしてか、今日の中で一番味がしたような気がした。
「えっと、大翔さんは亡くなっているんですね?」
知りたくないけど、恐る恐るボタンを押していた。
すぐに返信が届く。彼は私と同じ場所でスマホを触っていると思うとゾッとした。
「はい。誰にも知られないで、簡単に死んでしまいました。今は死者の世界からあなたとメッセージのやりとりをしています。僕のことを話したのは香織さんが初めてです。DMでフォロワーさんと話すのも初めてなのでちょっと緊張してます」
沢山の情報が一気に入ってくる。その中でも『死者の世界』というのがなぜか生々しく感じられるのはなぜだろうか。
「先に言っておきますがイタズラではないですよ。ま、信じられないと思いますが」
「信じます」
信じたくないけど。それが香織の想いだった。
きっと会える。そう思ってこの店に来た。でも彼と一生会うことはできない。今、それを知ってしまった。
大翔さんと少しでも話せたら。昨日は脳内妄想で大翔さんと話すことをイメージしてきたのに。直接話すことも叶わなくなってしまった。
「まさか信じてもらえるとは。なので香織さんと会うことはできません。すいません、メッセージを頂いたのに」
彼の『香織さん』という言葉が鋭いナイフのように香織心臓を切り付けていく。本当は会って名前を呼んで欲しかった。
「••••••私の恋も終わったんだ」
自分の恋が儚く散ってしまったことにも気づいてしまった。
香織の頬に涙が溢れる。
様々な想いが一気に消え去ってしまったのだった。
「でも、よく僕がフロッグガーデンにいると気づきましたね。正直、ビックリしましたよ」
驚いたのはこっちだっていうのに。大翔さんは淡々とメッセージを送ってくる。
「よく行く店でして。大翔さんの投稿とか、ストーリーにフロッグガーデンがのっていたので、嬉しくて声かけちゃったんです」
文章だけなら心が弾んでいるのだろう。
でも、もう会うことはできない。
その事実が香織の胸を締めつける。また泣きたくなってしまった。
「でも、香織さんに気づいてもらえて良かったです」
彼の声はきっと甘いのだろう。聞いたこともないけど、きっと、そんな気がする。
「僕はもうすぐ次の世界に行かないといけません」
香織の世界が鼓動を止めた。
「次の世界ってなんですか?」
私は恐る恐る聞いていた。本当は聞きたくないけど。
「生まれ変わらないといけないんですよ。僕はずっと死者の世界で彷徨っていたので」
そんな気がしていた。
「••••••」
「インスタを続けていたのは、フォロワーさんと一度でいいから話してみたかったからです」
彼がこんな想いを抱えていたなんて。他のフォロワーさんも聞いてみたかっただろう。
「未練を残してしまったんです」
「••••••」
「誰かと話してみたくて••••••」
会いたい、あなたと。私の想いは無惨にも消えていってしまうのだろうか。
「最後に誰かと話したら、次の世界に行こうと決めていました」
彼のメッセージは途切れない。
「そしたら香織さんが気になるメッセージをくれたんです。だから、最初で最後のDMは香織さんに決めたんです」
最初で、最後。
私だけが選ばれた。でも、私が終わらせてしまう。大翔さんの最後を。
香織がメッセージを送ったから。彼に気づいてしまったから。
大翔さんはこの世界にサヨナラを告げるのだ。
「••••••それって私のせいじゃん」
そう、全ては香織が招いたこと。私が彼に本当の「死」を与えてしまったのだ。
静寂が響き渡る。眩暈がした。私は画面から目が離せなくなってしまった。
スマホが震える。彼のメッセージで我に返る。
「だから、その何というか、ありがとうございます!」
まさか、お礼をいわれるとは。
大翔さんは笑っている。そんな気がした。私は表情を忘れてしまっているのに。
「本当は香織さんと会ってみたかったです」
大翔さんにそんなことを言ってもらえるなんて。彼と対面して言われたら、きっと顔なんて見れなかっただろう。
「お綺麗ですし」
その言葉は直接聞きたかった。私の手が止まる。何て返せばいいのだろう。
「でも、もう行かないといけません。香織さんと話せて良かったです」
ダメ、止めて、それ以上は。
震える右手を急いで動かす。こんなにも文字を打つのが辛いなんて。
「会いたいです、私は!」
「••••••」
この間が私には怖い。でも、会いたい。
「会えますよ、きっと」
目を疑っていた。会えないっていったよね? でも、会えるの?
「今すぐ会いたいです」
そう、今すぐだ。
「それは無理です、ごめんなさい。でも、きっと会えますよ」
何をいっているのだろうか。香織は混乱しているが、彼は会えるといっている。でも「きっと」だ。
一体どういうことなんだ?
「大丈夫です。会えます。香織さんなら。後に分かります」
私なら? 後に分かる? 今は教えてくれないのか。
「今は会えないけど、いつか会えるんですよね?」
確認の意味で聞いていた。正直、何が何だか。
「きっと会えます。そんな気がします。すいません、こんな言い方で」
「分かりました。待ってます。いつか、きっと会える日を。私は待ってますから」
普段の私ならこんなにグイグイ行かないのに。
私の恋は始まったばかりだ。まだ話したいことは沢山ある。
大翔さん。あなたのことをもっと知りたい。一度でいいから会いたい。
「すいません。そろそろ行かないとです。僕は感謝しかありません!」
消えてしまう、彼が。どうしよう。
「あのお願いが一つだけあります!」
急いでメッセージを送る。
「何でしょう?」
お願い、届いて。私は急いでメッセージを送る。
「 」
「分かりました。その願いなら最後に叶えられます」
大翔さんは私の我儘を叶えてくれた。
間に合って良かった。
でも、最後にもう一つだけ言いたいけど。
「大翔さんのことが好••••••」
きです。
彼は私の願いを叶え、
そして、この世界からいなくなった。
【エピローグ】
あれから数ヶ月の月日が経過している。香織は本を片手に喫茶店に入っていった。
大翔さんと連絡が取れなくなり、私の心はどこかに置いてきてしまったようだった。
数日は目の前の事実を受け入れることができなかった。
大翔さんは向うの世界に行ってしまった。
その事実を知っているのはきっと香織だけ。
誰にも言えない秘密を抱えてしまい、仕事も休む日もあった。
切り替えが中々うまく行かなかったが、大翔さんのことを思うと、私は生きるしかなかった。
這い上がるしかないのだ。
胸の内に大翔さんを抱えながら、私は今日を生きる。
彼のために、今日を生きるのだ。
そう思うといつまでも寝ている自分が嫌になった。私は外に出ることにする。
数日ぶりに外の空気を吸うと、自分が生きているということが身に染みてくる。
インスタを開く。彼と交わした「最初で最後の我儘」を忘れてはいけない。
あの日、自分自身で誓ったのだ。大翔さんのために生きると。
彼の未練を私が晴らすと。
彼の最後は私が迎え入れてしまった。私が彼にメッセージを送ったからだ。
でも、彼と話せた。言葉を交わすことができた。
それをできるのは香織だけだ。
私は彼のアカウントを開く。
香織は大翔さんのアカウントを引き継いでいたのだった。
最後にお願いした香織の願い。
「大翔さんのアカウントを私が引き継いでもいいですか?」
あのとき閃いた一つの希望。
それは大翔さんのインスタを消してはいけないということ。
私のせいで彼はいなくなってしまう。それなら、私が彼を引き継げばいいのだ。
この世で彼の死を知っているのは私だけ。それなら、彼の存在を消さないように、私が彼に代わりになればいいのだ。
瞬時にそう思い、彼に我儘をいった。
大翔さんはすぐに引き継ぎを行ってくれた。
「それは嬉しいです。でも、やめたいときにいつでもやめてくださいね」
そう言い残し、彼はいなくなった。
@hiroto.bookcafe
彼のインスタを開き、投稿を行う。
今日も大翔さんが行きたかった店に行くことができた。彼が読みたかった本も一緒に。
私の日常は大翔さんで溢れ返っていた。
彼のストーリーで行きたい店と読みたい本は熟知していたからだ。
後は彼の魂と一緒に来店するだけだ。
今日も沢山のメッセージが届いていた。
きっと大翔さんも見てくれているだろう。
自己満足かもしれない。虚しさが押し寄せることもある。
でも、大翔さんが笑ってくれる。
それで充分だった。
だから、私はカフェに行く。投稿をする。彼の分まで。
そして、その日は訪れた。
大翔さんが現れたのだ。
最初は目を疑ってしまった。彼がよく投稿していた東京のカフェに行ったときだった。
見間違えるわけがない。大翔さんが向かいの席に座っていたのだ。
言葉が出なかった。代わりに涙が溢れた。
急に泣き出した私に彼は気づいてくれた。
「大丈夫ですか?」
透き通るような瞳が香織を捉えていた。彼の目だ。
「ありがとうございます。大翔さんですよね?」
思わず聞いていた。
一瞬で彼の瞳が見開いた。
「兄を知っているんですか? 大翔は僕の兄です」
今度は香織の瞳が見開いた瞬間だった。大翔さんに弟がいたとは。
言葉が出てこない。確かによく見てみると、髪の色も違うし、大翔さんよりも柔らかいイメージを彼に抱く。
「••••••えっと、弟さん?」
「はい。陸翔といいます」
陸翔さんは大翔さんと兄弟で、双子の弟だったのだ。
彼の言葉がリフレインする。
「きっと会える」とはこのことだったのか。
大翔さんとよく似た陸翔さんと言葉を交わす。
私の心臓があの時を思い出していた。
「そっくりだね、大翔さんと」
彼を思い出すと、もう一度波が溢れる。
私の恋はもう一度動き出していた。
この恋はきっと辛いものになるだろう。
だって、陸翔さんと会う度に大翔さんを思い出すのだから。
それでもいい。
彼と会えたから。
大翔さんが微笑んでいる。
私にはそんな気がした。【了】
自分にそう言い聞かせるように、香織は歩き出していた。向かう先は香織が通っている喫茶店「フロッグガーデン」だ。
目的はただ一つ。彼と会うこと。会える保証はどこにもない。だって言葉も交わしたこともない相手だし、本当に彼が現れるのか、確証がないのだから。
「今日はどうだろう?」
香織はInstagramを開いていた。
@hiroto.bookcafe
彼のインスタをまたもタップしていた。何度このアカウントを覗いているのだろう。最近では彼のアカウントに挨拶をするのが癖のようになってしまっている。
大翔さんのインスタを意識して見るようになったのは、最近のことだった。インスタを始めて間もない香織だが、彼のインスタには吸い込まれていくようだったことを覚えている。
フォロワー数は三万人。読書アカウントとして開設されている彼のインスタは、人気のアカウントだった。
同じく読書を趣味とする香織としては、フォローするのが当然だった。
三万人。一般人だとしても香織には決して届かないフォロワー数。香織のフォロワー数は百五十二人。天と地の差を感じる両者なのだった。
顔は一切出さない、彼のインスタ。プロフィール欄には「二十六歳 男性」とだけしか情報がない。
インスタの特徴としては、カフェで本を撮影した写真を投稿しているだけ。読んでいる本の趣味も良いし、何よりもカフェの写真が映えるのだ。カフェのテーブルや壁を背景にし、読んでいる本と一緒に撮影する。実にシンプルな写真だが、彼の撮り方が上手いのか、読書アカウントから絶大な人気を集めている。
本のキャプションはサラッと書かれており、このキャプションの量もちょうど良いのだった。長すぎず、短すぎず。丁寧な本紹介で、見ているものを魅了するキャプションがまたも人気の一つだった。香織は何度も彼の投稿から本を購入しているのだろうか。数えたらキリがないほどである。
香織のように魅了されたフォロワーは少なくないだろう。必死にコメントをする者も多いが、彼がそのコメントに返信をすることは一切ない。どの投稿も安定したコメント数を獲得しているが、彼がそのコメントを見ているのかも怪しいほどだった。
顔は出さない。コメントもしない。ダイレクトメッセージは最初から受けつけていない。
それがまた人気の理由なのかもしれないと、香織はそう思うようになっていた。
日本のどこかに彼はいるのだろうが、その存在はシークレット。誰も姿を見たことがないからこそ、女性は彼を追い求めてしまうのだった。
毎日彼の投稿を見ているからこそ、彼のことは多少なりに分かっている。
写真から推測できるのは、何となく彼が甘党だということ。それと彼は一人でカフェに入っている印象だ。写真に写るドリンクが二つだったことはまずない。おそらく、きっと、そうだ。ちゃんと毎日見ているのだから女性の影はないはず。情報を制するのが、恋愛のセオリーなのだと香織は信じていた。
さらに、投稿されているカフェの名前も一切公開してない。だから、彼のフォロワーはどこのカフェなのか、血眼になって探しているのだ。勿論、香織もその一人だ。他のフォロワーさんの情報は早い。その情報によると、彼は関東のカフェに出没することが分かっている。東京や横浜のように都市部のオシャレなカフェを出入りしていることが判明したのだった。女性フォロワーは一喜一憂した。自分の住んでいる地域のカフェに彼が足を運ぶと、コメント欄が賑わいだす。栃木県に住んでいる香織としては、彼がこんな田舎に現れるとは一切思っていなかった。
転機は突然訪れた。東京のカフェ写真が投稿されず、彼の行く先が埼玉県、群馬県、茨城県と、どんどん北関東に向かっていることが分かったのだった。香織が住む栃木県に来るのは、時間の問題。期待していた香織は、より彼の動向をインスタ越しにチェックするのだった。
そして彼が栃木県のカフェに現れた。
香織の慣れ親しんだカフェに彼が現れていたのだった。
それを確認したのは仕事終わりの帰り道。その日に限って、残業が長引き、スマホをチェックする時間すらなかったのだった。
彼の投稿を見て、思わず息を呑む。
そこに映し出された一枚のカフェ写真。それが「フロッグガーデン」だったのだ。
「••••••昨日行ってたじゃん」
後悔ばかりが津波のように押し寄せる。昨日香織が行っていたフロッグガーデン。しかし、彼は香織のいない今日に限って、店を訪れていたのだった。
投稿時間は十時頃。完璧に仕事をしていた時間だった。
写真を見れば驚くことばかり。その写真が映し出すカフェの世界。それはいつも香織が見ている席からしか見えない景色だった。
大翔さんが香織のお気に入りの場所に座っていた。
目の前で起こっていることが現実なのか、香織には分からなくなってきた。
彼と偶然会うことはできなかった。落ち込む香織だったが、次の瞬間に舞い上がっていた。
「お気に入りのお店になった。また行こ」
彼のストーリーにはそう書かれていた。ストーリーの背景は「フロッグガーデン」だ。大翔さんはまた店にくるかもしれない。
再び香織に春がきた。香織の中では桜吹雪が舞い上がる。今は冬だっていうのに。
明日の予定は休みだった。これはチャンスかもしれない。
すると、彼のストーリーがさらにアップされた。
香織は目を疑った。
彼のストーリーには、一人の男性が映し出されていた。
そこに映っているのは、マスク姿の好青年。目と鼻筋が整う男性がインスタ越しに香織を見つめていた。
大翔さんだ。香織はそう確信した。急いでスクショをする。慌ててしまったが、何とか写真に納めることができたのだった。
次の瞬間、大翔さんのストーリーが真っ黒に染まる。
ストーリーが見れなくなり、さきほどのカフェのストーリーしか映らなくなった。
香織の心臓が脈を打つ。時間にして数秒の出来事だった。
大翔さんは顔写真のストーリーを急いで消去したのだった。おそらく何かの手違いで写真をアップしてしまったのかもしれない。
手元のスマホを見つめる。急いで画像フォルダを開くと、先ほどの写真が保存されていた。
私のスマホの中に大翔さんがいる。
そこに映る男性は、想像以上にイケメンだったことはいうまでもない。
翌朝、彼のストーリーを開く。今日のストーリーには「お気に入りの場所に行ってきます」とだけ書かれている。ストーリーがアップされたのは、ほんの数分前だ。香織は妄想を膨らますのをさらに加速した。
「きっと今出たばかりだから、三十分くらいで来るかな?」
いつものカフェへ足を運ぶ。川沿いに店を構えるフロッグガーデン。店の近くには散歩道があり、のんびりとした栃木市の風景を堪能することができる。
「彼とここを歩けたら」
香織の口から零れ落ちてしまった。妄想が膨らんでしまう。昨日はあまり眠れなかった気がする。彼の顔写真を見つめながら、布団に入ったのが失敗だった。脳内にも溢れる大翔さん。その甘いマスクが香織に微笑みかけていた。
天井を見上げながら、香織は自身の鼓動を感じていた。
トクン、トクン。
いつもより早いペースで心臓が動いている。原因は分かっている。彼に惹かれてしまったからだ。
恋愛なんてこの歳になるまでしたことがなかった。恋には興味があった。でも、心惹かれる男性には出会わなかった。告白だって一度くらいされたことはある。それでも、当時の香織には首を縦に振るほど、その男性には魅力がなかったのは事実だった。
それがここにきて、ペースを乱されている。相手はインスタで見つけた大翔さんと呼ばれる男性。実際に会ったことも、話したこともない。
それでも、こんなにも香織の心を突き動かすのはどうしてだろう。
これが恋なんだ。大翔さんが頭から離れなくなっている。
どんな声をしているのだろう。私よりもきっと大きいのだろう。隣に並んだらどうすればいいのだろう。
恋愛経験が乏しい香織には深夜の大パニックなのだった。
そんな大惨事が夜の香織を襲ったが、朝を迎えると急いで動き回っていた。
鏡の前の自分は綺麗だろうか。いつもより入念に化粧をし、もう一人の自分に微笑みかける。
私を見つめる大翔さんは、一体どんな表情をするのだろうか。
怖くないと言えば嘘になる。不安が押し寄せる。それでも、ここで会わないと一生後悔する気がしていた。
「行くよ、私」
香織は一歩踏み出していた。
インスタを小まめにチェックしながら目的地に向かう。
昨日の投稿は十時に投稿されていた。九時を目安に店を目指す香織。
フロッグガーデンに入ると、いつもの席を確保することができた。
昨日、大翔さんが座っていた席に香織は座っている。
何だか、一人だけ抜け駆けしたような気分になっていた。
呼吸を整える。彼はきっと来るはず。
店内から外の様子を伺った。観光客がちらほらと店の外を散策している。大翔さんらしい人は見当たらない。昨日は何度もその顔を確認してきたのだ。間違えるはずがない。
「でも、どうしよう」
今になって不安が押し寄せる。
実際に大翔さんが来たところで、何て声をかける?
「大翔さんですよね? いつもインスタ見てます!」
不自然か? 初対面の相手がそう言ってきたら。
どうすればいいのだろう。緊張するからインスタを開く。
すると、そこには「店に着いた」とだけストーリーに書かれていた。
時が止まる。香織は店内を見渡した。店の中には香織以外にお客さんはいない。
本当に彼が来るのだろうか。胸が動き出している。それは止まることを知らないのか。
「••••••」
来ない。おかしい。ストーリーにはフロッグガーデンが映し出されていた。私が知っているこの店だ。何度も見てきたから見間違うわけがない。
もう一度スマホを覗く。彼のストーリーは先ほどのままだった。
「もう少し待ってみるか」
香織は待つことにした。時間はいくらでもある。彼はまだ外にいるのかもしれない。自分にそう言い聞かせ、香織自身を落ち着かせた。震える手でオーガニックココアを口にした。ほんのりと甘さが香るオーガニックココアだが、どうしてか、今日は味がしない気がする。
それから店内で待ち続けた。文庫本を開いたが内容は一ミリも頭に入ってこない。浮かぶのは彼の顔だ。
「流石に遅い」
待ち続けて一時間が経過してしまった。生きた心地がしない。
再びインスタを開く。すると彼の投稿が更新されていた。
急いでスマホをタップする。彼が投稿するのは本を読み終わってすぐのはずだ。
一枚の写真が香織の網膜に映し出される。
その写真には香織が見ている景色が映し出されていた。
やはりおかしい。彼の写真は香織の席に座っていないと撮影できない写真なのだ。
でも、彼は店内にはいない。店の中にいるのは店員と香織だけなのだ。
「一体どういうことなの?」
もう一度彼の写真に目を移す。レジの近くに時計があるが、写真の時刻は十時十分。現在時刻は十時十五分だから、五分前に投稿された写真なのは間違いない。さらに、レジ下には無農薬野菜が置かれていた。店に来た時、農家の方が大根を持ってきていたのだった。その大根の数も、映し出される角度も香織が見ている景色と一致する。
ではなぜ大翔さんはいないのか?
大翔さんのアカウントのダイレクトメッセージを開く。彼はメッセージの返信はしないが、メッセージを送ることはできるはずだ。香織は初めて彼にメッセージを送ってみることにした。まさかこんな形でメッセージを送ることになるとは。
「突然のメッセージ失礼します。インスタいつも楽しく拝見してます。香織と言います。今日の投稿とストーリーを見て気づいたんですが、大翔さんは栃木県のフロッグガーデンにいますよね?」
嘘は混じっているし、直球すぎたかもしれないが、送信ボタンを押していた。
メッセージが無事に送られた。
すぐに既読がつく。
驚いた。彼はこのメッセージに目を通したのだ。心臓が誤作動している。
既読になってからの「間」が怖い。彼が私のメッセージを見てくれているのだ。普段だったら気分も高揚していただろう。でも、今はそんな気分になれなかった。
文字が入力されていく!
大翔さんが返信をしているのか。ファンに知られたら殺されていただろう。しかし、今はすぐにその返事を聞きたかった。
「よく分かりましたね。フロッグガーデンにいますよ。初めまして」
頭が真っ白になっていた。理解が追いつかない。彼は店にいるらしい。でも、いない。どういうことだ?
「どこにいますか? 赤いコートを私は着ていますが、大翔さん、分かりますか?」
急いでメッセージを送る。またしてもすぐに既読がついた。またも間が生まれる。
「入り口から入ってすぐの席です。右側には暖炉があります。赤いコートの女性は見えませんね、すいません」
天と地がひっくり返った気がした。大翔さんが話した席は、間違いなく私が今座っている席だ。温かい暖炉も右手にある。そして、大翔さんは私のことが見えていないらしい。
私が彼を見えていないのか、それとも彼が私を見えていないのか。そういうことなのだろう。
スマホが通知を知らせてくる。大翔さんからメッセージが続く。
「香織さん、正直に言いますね」
私はスマホから目が離せない。
次の言葉は聞きたくなかった。次の言葉をおそらく予測してしまっている自分がいるのだろう。
「僕、実はもう死んでいるんですよ」
彼の言葉が頭から離れなくなった。
「ごめんなさい。こんなメッセージで困惑してますよね?」
続けて大翔さんがメッセージを送ってくれた。
私はまだ混乱していた。彼は死んでいる。でもメッセージのやりとりはこうして香織と行っているではないか?
ココアに手を伸ばす。香織の右手は小刻みに震えていた。その手でココアを一口。どうしてか、今日の中で一番味がしたような気がした。
「えっと、大翔さんは亡くなっているんですね?」
知りたくないけど、恐る恐るボタンを押していた。
すぐに返信が届く。彼は私と同じ場所でスマホを触っていると思うとゾッとした。
「はい。誰にも知られないで、簡単に死んでしまいました。今は死者の世界からあなたとメッセージのやりとりをしています。僕のことを話したのは香織さんが初めてです。DMでフォロワーさんと話すのも初めてなのでちょっと緊張してます」
沢山の情報が一気に入ってくる。その中でも『死者の世界』というのがなぜか生々しく感じられるのはなぜだろうか。
「先に言っておきますがイタズラではないですよ。ま、信じられないと思いますが」
「信じます」
信じたくないけど。それが香織の想いだった。
きっと会える。そう思ってこの店に来た。でも彼と一生会うことはできない。今、それを知ってしまった。
大翔さんと少しでも話せたら。昨日は脳内妄想で大翔さんと話すことをイメージしてきたのに。直接話すことも叶わなくなってしまった。
「まさか信じてもらえるとは。なので香織さんと会うことはできません。すいません、メッセージを頂いたのに」
彼の『香織さん』という言葉が鋭いナイフのように香織心臓を切り付けていく。本当は会って名前を呼んで欲しかった。
「••••••私の恋も終わったんだ」
自分の恋が儚く散ってしまったことにも気づいてしまった。
香織の頬に涙が溢れる。
様々な想いが一気に消え去ってしまったのだった。
「でも、よく僕がフロッグガーデンにいると気づきましたね。正直、ビックリしましたよ」
驚いたのはこっちだっていうのに。大翔さんは淡々とメッセージを送ってくる。
「よく行く店でして。大翔さんの投稿とか、ストーリーにフロッグガーデンがのっていたので、嬉しくて声かけちゃったんです」
文章だけなら心が弾んでいるのだろう。
でも、もう会うことはできない。
その事実が香織の胸を締めつける。また泣きたくなってしまった。
「でも、香織さんに気づいてもらえて良かったです」
彼の声はきっと甘いのだろう。聞いたこともないけど、きっと、そんな気がする。
「僕はもうすぐ次の世界に行かないといけません」
香織の世界が鼓動を止めた。
「次の世界ってなんですか?」
私は恐る恐る聞いていた。本当は聞きたくないけど。
「生まれ変わらないといけないんですよ。僕はずっと死者の世界で彷徨っていたので」
そんな気がしていた。
「••••••」
「インスタを続けていたのは、フォロワーさんと一度でいいから話してみたかったからです」
彼がこんな想いを抱えていたなんて。他のフォロワーさんも聞いてみたかっただろう。
「未練を残してしまったんです」
「••••••」
「誰かと話してみたくて••••••」
会いたい、あなたと。私の想いは無惨にも消えていってしまうのだろうか。
「最後に誰かと話したら、次の世界に行こうと決めていました」
彼のメッセージは途切れない。
「そしたら香織さんが気になるメッセージをくれたんです。だから、最初で最後のDMは香織さんに決めたんです」
最初で、最後。
私だけが選ばれた。でも、私が終わらせてしまう。大翔さんの最後を。
香織がメッセージを送ったから。彼に気づいてしまったから。
大翔さんはこの世界にサヨナラを告げるのだ。
「••••••それって私のせいじゃん」
そう、全ては香織が招いたこと。私が彼に本当の「死」を与えてしまったのだ。
静寂が響き渡る。眩暈がした。私は画面から目が離せなくなってしまった。
スマホが震える。彼のメッセージで我に返る。
「だから、その何というか、ありがとうございます!」
まさか、お礼をいわれるとは。
大翔さんは笑っている。そんな気がした。私は表情を忘れてしまっているのに。
「本当は香織さんと会ってみたかったです」
大翔さんにそんなことを言ってもらえるなんて。彼と対面して言われたら、きっと顔なんて見れなかっただろう。
「お綺麗ですし」
その言葉は直接聞きたかった。私の手が止まる。何て返せばいいのだろう。
「でも、もう行かないといけません。香織さんと話せて良かったです」
ダメ、止めて、それ以上は。
震える右手を急いで動かす。こんなにも文字を打つのが辛いなんて。
「会いたいです、私は!」
「••••••」
この間が私には怖い。でも、会いたい。
「会えますよ、きっと」
目を疑っていた。会えないっていったよね? でも、会えるの?
「今すぐ会いたいです」
そう、今すぐだ。
「それは無理です、ごめんなさい。でも、きっと会えますよ」
何をいっているのだろうか。香織は混乱しているが、彼は会えるといっている。でも「きっと」だ。
一体どういうことなんだ?
「大丈夫です。会えます。香織さんなら。後に分かります」
私なら? 後に分かる? 今は教えてくれないのか。
「今は会えないけど、いつか会えるんですよね?」
確認の意味で聞いていた。正直、何が何だか。
「きっと会えます。そんな気がします。すいません、こんな言い方で」
「分かりました。待ってます。いつか、きっと会える日を。私は待ってますから」
普段の私ならこんなにグイグイ行かないのに。
私の恋は始まったばかりだ。まだ話したいことは沢山ある。
大翔さん。あなたのことをもっと知りたい。一度でいいから会いたい。
「すいません。そろそろ行かないとです。僕は感謝しかありません!」
消えてしまう、彼が。どうしよう。
「あのお願いが一つだけあります!」
急いでメッセージを送る。
「何でしょう?」
お願い、届いて。私は急いでメッセージを送る。
「 」
「分かりました。その願いなら最後に叶えられます」
大翔さんは私の我儘を叶えてくれた。
間に合って良かった。
でも、最後にもう一つだけ言いたいけど。
「大翔さんのことが好••••••」
きです。
彼は私の願いを叶え、
そして、この世界からいなくなった。
【エピローグ】
あれから数ヶ月の月日が経過している。香織は本を片手に喫茶店に入っていった。
大翔さんと連絡が取れなくなり、私の心はどこかに置いてきてしまったようだった。
数日は目の前の事実を受け入れることができなかった。
大翔さんは向うの世界に行ってしまった。
その事実を知っているのはきっと香織だけ。
誰にも言えない秘密を抱えてしまい、仕事も休む日もあった。
切り替えが中々うまく行かなかったが、大翔さんのことを思うと、私は生きるしかなかった。
這い上がるしかないのだ。
胸の内に大翔さんを抱えながら、私は今日を生きる。
彼のために、今日を生きるのだ。
そう思うといつまでも寝ている自分が嫌になった。私は外に出ることにする。
数日ぶりに外の空気を吸うと、自分が生きているということが身に染みてくる。
インスタを開く。彼と交わした「最初で最後の我儘」を忘れてはいけない。
あの日、自分自身で誓ったのだ。大翔さんのために生きると。
彼の未練を私が晴らすと。
彼の最後は私が迎え入れてしまった。私が彼にメッセージを送ったからだ。
でも、彼と話せた。言葉を交わすことができた。
それをできるのは香織だけだ。
私は彼のアカウントを開く。
香織は大翔さんのアカウントを引き継いでいたのだった。
最後にお願いした香織の願い。
「大翔さんのアカウントを私が引き継いでもいいですか?」
あのとき閃いた一つの希望。
それは大翔さんのインスタを消してはいけないということ。
私のせいで彼はいなくなってしまう。それなら、私が彼を引き継げばいいのだ。
この世で彼の死を知っているのは私だけ。それなら、彼の存在を消さないように、私が彼に代わりになればいいのだ。
瞬時にそう思い、彼に我儘をいった。
大翔さんはすぐに引き継ぎを行ってくれた。
「それは嬉しいです。でも、やめたいときにいつでもやめてくださいね」
そう言い残し、彼はいなくなった。
@hiroto.bookcafe
彼のインスタを開き、投稿を行う。
今日も大翔さんが行きたかった店に行くことができた。彼が読みたかった本も一緒に。
私の日常は大翔さんで溢れ返っていた。
彼のストーリーで行きたい店と読みたい本は熟知していたからだ。
後は彼の魂と一緒に来店するだけだ。
今日も沢山のメッセージが届いていた。
きっと大翔さんも見てくれているだろう。
自己満足かもしれない。虚しさが押し寄せることもある。
でも、大翔さんが笑ってくれる。
それで充分だった。
だから、私はカフェに行く。投稿をする。彼の分まで。
そして、その日は訪れた。
大翔さんが現れたのだ。
最初は目を疑ってしまった。彼がよく投稿していた東京のカフェに行ったときだった。
見間違えるわけがない。大翔さんが向かいの席に座っていたのだ。
言葉が出なかった。代わりに涙が溢れた。
急に泣き出した私に彼は気づいてくれた。
「大丈夫ですか?」
透き通るような瞳が香織を捉えていた。彼の目だ。
「ありがとうございます。大翔さんですよね?」
思わず聞いていた。
一瞬で彼の瞳が見開いた。
「兄を知っているんですか? 大翔は僕の兄です」
今度は香織の瞳が見開いた瞬間だった。大翔さんに弟がいたとは。
言葉が出てこない。確かによく見てみると、髪の色も違うし、大翔さんよりも柔らかいイメージを彼に抱く。
「••••••えっと、弟さん?」
「はい。陸翔といいます」
陸翔さんは大翔さんと兄弟で、双子の弟だったのだ。
彼の言葉がリフレインする。
「きっと会える」とはこのことだったのか。
大翔さんとよく似た陸翔さんと言葉を交わす。
私の心臓があの時を思い出していた。
「そっくりだね、大翔さんと」
彼を思い出すと、もう一度波が溢れる。
私の恋はもう一度動き出していた。
この恋はきっと辛いものになるだろう。
だって、陸翔さんと会う度に大翔さんを思い出すのだから。
それでもいい。
彼と会えたから。
大翔さんが微笑んでいる。
私にはそんな気がした。【了】