だって、君は俺の妻だから~クールな御曹司は雇われ妻を生涯愛し抜く~
 どこか親しげな雰囲気もあるふたりに足が縫いつけられたように動かせない。けれど無理やり金縛りを解いて、こちらに近づいて来る彼らから逃げるように踵を返して駆け出す。あれこれ考える間もなく再び駅構内に戻った。

 人の流れからはずれ、建物の隅で乱れた心と呼吸を落ち着かせる。なにも悪いことはしていないし、やましさなどないのに、とっさに逃げ出してしまった。

 でも気づかれてはいけない気がした。とてもではないが声なんてかけられない。

 私は彼の妻ではあるけれど、しょせんは仮初めのものだ。いずれ別れるのが決まっているのなら、必要以上に彼の人間関係に立ち入らない方がいい。

 久弥さんだって、きっとそう思っている。

 どれくらいそうしていたのか。気持ちが落ち着き、再度駅を出で家路につく。当然、久弥さんも隣にいた彼女ももういない。

 時間を確認しようとスマホを取り出すと、間もなく午後八時になろうとしていた。病院からの着信もなければ、久弥さんからの連絡もない。

 大丈夫、大丈夫だ。

 様々な感情を振り払い、私は心を無にしてマンションに向かった。

 すっかり慣れた調子で玄関の鍵を開けて中に入る。いつも通り誰もおらず、電気は自動で点くもののシンと静まり返っていた。

『瑠衣、おかえり』

 ふと母の声が脳内で再生され、頭を振る。

 ここは実家じゃない。疲れているんだ、私は。とにかく横になろう。
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