妖狐とノブレス・オブリージュ

約束


 陽の光が瞼の奥をノックした。細長い視界には、脳天を突き刺すような真っ白な光が溢れている。
 
「ん……」

 自分が発したはずの声がどこか遠くに感じて、代わりに、すぐ近くに自分ではない誰かのぬくもりを感じた。

 ゆっくりと瞬きを繰り返しているうち、ようやく瞳孔が閉じていく。もう一度瞬きをして、モモは顔をほんの少し動かした。

 視線を下に向ける。自分の手は、別の大きな骨張った手に包まれていた。

「……おはよう、モモ」

 手の甲を優しく撫でられる。
 聞こえるはずがない声に、モモは一瞬思考が停止した。
 声の方へ視線をやると、そこには、ハルがいる。モモが焦がれてやまない、大切な人がいた。

「ハル……さま……」

(これは、なんだろう……)

 モモは、真っ暗な牢獄に閉じ込められていたはずだ。

 辺りを見る。白いカーテンが揺れ、隙間からぽかぽかとした陽射しが差し込んでいる。モモはふかふかで優しい手触りのシーツに包まれていて、ベッドのすぐ脇には、ハルがいる。

(あぁ……これは……夢か。私は、夢を見てるんだ。とうとう死んだんだ)

 寒い寒いあの闇の中で、ひとりで……。

 ふと、自分の腹を見る。優しく撫でるように、ごめんねと目を伏せた。
 助けてやれなかった大切ないのち。
 夢の中でなら、好きな物に囲まれて生きても、許されるだろうか。
 夢の中でなら、ハルはモモをただの女の子として愛してくれるだろうか……。

「……モモ」

 ハルはなぜか泣きそうな顔をして、口をきゅっと結んでいる。それは、モモの心臓をこれ以上ないくらいに締め付けた。

「ハルさま……? どうしたんですか」

 思わずハルの手を強く握る。

「……ごめん。俺、モモのこと、散々傷つけた。モモを騙してこの屋敷に囲って……サクにバレたら、俺はあっさり君を見捨てようとした」

 ハルは苦悶の表情を浮かべていた。

「……モモがトトを好きだって言ったとき、いやだったんだ。モモが他人のものになるのがいやだった。誰より愛してるのに、君の幸せを願えなくて……つまらない嫉妬で、君の命を奪おうとした。ごめん。いくら謝っても、足りない。俺に、君を愛する資格はない。でも……好きなんだ。ダメだって分かってても、どうしようもないくらい」

(ハルさまが……私を、好き……?)
 
 モモは困惑気味に視線を彷徨わせた。ハルはモモをまっすぐに見つめた。
 
「……ねぇ、モモ。トトに聞いたよ。お腹の子のこと」

 モモはぴくりと肩を震わせた。

「あ……の……」
「俺のために、嘘ついたの?」
 
 ハルの手が、優しくモモの頬を撫でる。ハルは言葉を促すようにモモを見つめ、ゆっくりと瞬きをした。

「ひとりで、産もうとしてたの?」

 ハルの声は、責めるようなものではない。それなのに、モモの胸をぎゅっと締め付けた。

「……だって、私の正体を知らないと思ってたから……」
「うん。全部俺が悪い。全部俺のせいだ。俺が君に我慢させて、危険な目に遭わせた。本当に、ごめん」

 モモは慌てて首を振る。

「いえ! 違います。ハルさまの仕事の妨害をしたのは、私の方です」
「……違うよ。君は魔物だけど、べつに悪さはしないだろう?」
「でも、ハルさまの仕事を考えたら、私はハルさまのそばには……」
「君は、そんなこと気にしなくていい。好きだよ。もうどこかに行くなんていやだよ、モモ。誰かのものになるのもダメ。ずっと俺のそばにいて」

 モモはじんと瞳をうるませて、ハルを見つめた。

「これは……なんて幸せな夢なんですか」

(叶うならもう一回聞きたい……)

「夢?」

 ハルがきょとんとした顔をする。

「極楽浄土って、本当に存在したんですね……感激です……」
「ちょちょ、ストップ。夢じゃないから! 現実ね、モモ」
「現実……?」

(たしかに、いろいろとリアルな夢だけど……)

「私、死んだのでは」
「生きてるよ」
「……檻の中にはいたはずなのでは」
「サクにはちゃんと話をして、返してもらった。もちろん、婚約の件も白紙になったよ」
「そんなの……やっぱり、絶対、夢です……」

 ハルがくすりと笑う。

「ううん、現実だよ。ほっぺつねって確認してみる?」
「……う。痛いのはいやです」

 モモは、ばっと両手で自分の頬を隠した。
 
「うん。もちろん。君の頬をつねるわけにはいかない。俺のをつねるよ」と、ハルが自分の両手を自分の頬へ持っていく。
 
「そ、それはもっとだめです!!」

 モモは慌ててハルの顔へ手を伸ばす。……が、気が付けば、モモはなぜだか両手をハルに拘束されていた。

「捕まえた」
「わっ……わわっ」

 そのまま優しく引き寄せると、ハルはモモにキスをした。優しく、まるで果物のように甘いキスだった。

 何度も何度も、角度を変えては唇をついばまれる。

「痩せちゃったね」
 ハルは悲しげにそう言って、モモの首筋をなぞる。

「俺は……一度に君も、お腹の子も失うところだった。いつも、モモはあんなにまっすぐに俺に愛を教えてくれてたのに……本当にごめん」
「……悪いのは、私です。ずっとハルさまを騙してました。妖狐だってトトさまにバレたときはどうしようかと思いましたが……今思えば、トトさまも既にご存知だったんですよね」
「もしかして、トトになにかされた?」

 ハッとしたように見つめてくるハルが意外で、モモは口元を綻ばせた。

「いえ。トトさまは、ずっと私の味方をしてくれてました」
「……そう」
 
 ハルは再びモモの瞼や鼻先、額にキスを落とし始めた。その瞳はどこか切実で、焦っているように見える。

「っ……あの、ハルさま?」
「モモ……愛してる。もう、どこにも行かないで。俺のそばにいて。他の人が好きだなんて言わないでよ」

 ハルは泣きそうな瞳でモモを見下ろした。その悲愴な声に、モモは胸が苦しくなる。

「いきなり、あんなに懐いてた子が、手のひらを返したように俺を避けるようになって、話もさせてくれなくて、自分の執事と寄り添ってるなんて……割と地獄だったんだよ」

 思い出したのか、眉を寄せたハルにモモは、
「……すみません」
 伏し目がちに頭を下げた。まだ完璧な変化ができるほど戻っていない体力不足のおかげで、頭の上から飛び出た耳も、腰から伸びた九本の尻尾も、しゅんと垂れてしまう。
 
「……でも、私は妖狐で……産まれてくる子も、人である保証はありません。ハルさまはこの国を守る貴族です。私は……ハルさまの天敵です。ハルさまの隣に相応しくありません」
「そんなことない。ノブレス・オブリージュは、この先俺が変えていく。もともとこの国にも、良い魔物だっているんだ。だから、見境なく駆除するのは間違ってる。モモに見合わないのは俺だよ。頑張ってモモの隣に立てる男になるから、だから……」

 その想いに、モモは胸がいっぱいになった。思わずハルに飛びつき、ぎゅっとしがみつく。ハルは驚きながらも、モモをしっかりと抱きとめた。

「じゃあ、ずっとハルさまを好きでいてもいいんですか?」
「うん」
「言っておきますが、もう離れませんよ? 国に強制送還も、退治もいやですよ?」
「……うん。俺も、もう二度と離さないよ」

 モモは、パッと花が咲いたような笑顔を浮かべる。

「ハルさま。大好き」
「トトより?」
「むっ……」

 モモは頬をふくらませた。その表情がまるで子どものようで、ハルはぷっと小さく噴き出しながら、あやすように垂れた耳の間の小さな頭を撫でる。

「ごめんごめん。ありがとう」
「いろいろ、隠しててごめんなさい」

 いつもの素直なモモに戻ったことが嬉しかったのは、ハルは優しい眼差しでこくりと頷いた。

「お互いさまだよ。俺もごめん。……あぁ、でも、妊娠を誤魔化してたのは、いただけないな」

 ハルはすっとモモの腹部を撫でた。思わず身を固くするモモに、優しく笑いかける。

「これからは、めいっぱい甘やかすからね。とりあえず今は、仕事と一人行動は禁止だよ。これからは、寝室も俺の部屋」

(まさかの強制甘やかし……嬉しいけど心臓が持たない!!)
 
「で、でも」

 モモが異議を唱えようとするが、ハルは聞こえないふりをしてさらに続けた。
 
「それから走らないこと。あと、そうだな。トトと二人きりになるのも禁止。あとは……」
「まだあるんです!?」
「もちろん。自分でご飯食べるのもダメ。俺が食べさせるから、そのつもりでね」

 ハルは笑顔で押し通そうとしてくる。

「うぅ……で、でも」
(その笑顔、大好きですが。大好きなんですが……)
 
「自分でご飯を食べたからといって、お腹の子に影響が出るというのはないのでは」
「うん。本当は、俺があーんして食べさせたいだけ」

(あーん!!)
 
「ハルさまー!! 好きですー!!」

 ついさっきまでしょんぼりと垂れていた尻尾は、はち切れんばかりにぶんぶんと振り回されている。
 
 優しくて、だけど少し強引なハルがモモは大好きだった。そしてハルもまた、無邪気で素直なモモがなにより愛おしかった。

 二人は出会った瞬間、ごくごく自然に恋に落ちた。
 
 お互いに素性を隠して愛し合っていたけれど、今は、すべてをさらけ出した。これから先、手を取り合って歩む道が、たとえ一寸際も見えない霧の中の茨道だとしても、この手を握り合っているだけで、傷を負うことすら愛おしく感じる。

 こんなにも心を乱して重くして、涙が枯れるほど泣いたって、それでも忘れられないこの人を手放すくらいなら、多少の擦り傷なんて怖くない。

 モモはまだ見ぬ明日と、お腹の中の小さな命を想いながら、ゆっくりと目を閉じた。
 小鳥たちの軽やかな歌声が響く青空を瞼の裏に思い描く。
 カーテンが風に揺れるたび、ハルの匂いがモモの胸を満たしていく。繋がった手のぬくもりを噛み締めながら、モモはまどろみの中に落ちていった。
 
 
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