妖狐とノブレス・オブリージュ

決断


 トトと別れたあと、俯いたままとぼとぼと庭園を歩いていると、突然ポスッとなにかに受け止められた。

「わっ……も、申し訳ありません」

 慌てて謝りながら顔を上げる。息が詰まった。
 そこにいたのは、今一番会いたくない人だった。

「モモ?」

 柔らかい手は、モモの両肩に手を置いたまま、優しく呼んだ。
 
「……ハル、さま」
 
 運命とは残酷なもので、一番会いたくないときほど、その糸は引き合うものである。
 
「ここにいたんだ。探してたんだよ」
「……はい」
「昨夜来た客人から、モモの好きな紅茶をもらったんだ。一緒にお茶しよう」
「お茶……」

 ハルの陽だまりのような優しい声を聞けば聞くほど、心臓が狂ったようにきりきりと痛む。

 答えられず黙り込んでいると、ハルが心配そうにモモの顔を覗き込んだ。細く長い指がすっとモモの髪を梳く。
 
「どうしたの? なにかあった?」
 
 大好きな指に涙腺が緩む。いつだってモモに触れるハルの手は優しくて、温かい。
 
「もしかして、また体調悪い? 最近体調崩し気味だって聞いていたけど」
「……いえ」

 潤んだ瞳を見られないよう、モモは俯いた。

(……言うなら今……なのかな)
 
「……ハルさま。お話があるのですが」

 ハルは暗い表情のモモに怪訝な顔をしながらも、
「……部屋に行こうか」

 やはりスマートに促してくれるハルは、モモよりもずっと大人だ。
 
「はい」
 
 ハルはそれ以上なにも聞くことなく、モモの頭を優しく撫でると、そのまま腰に手を回して歩き出した。

(……ちゃんと、言わなくちゃ)
 
 一つのティーカップに紅茶を注ぐモモを見つめ、ハルは申し訳なさそうに言った。

「……ティータイムの気分じゃなかったかな」
「……いえ、そういうわけではないのですが」

 正直、味など楽しむ余裕も度胸もまったくない。
 
「モモ、こっちにおいで」
 
 ハルがモモを呼ぶ。いつもなら甘く高鳴る胸も、今日は苦しいくらいにぎゅっと締め付けられる。
 すぐにでもその胸の中へ飛び込みたくなりながらも、ぐっと堪える。
 
「……おしまいにしましょう」

 モモの一言に、ハルは沈黙した。

「別れてください、ハルさま」
「……急にどうしたの?」
 
 ハルが戸惑いの色を見せたのはほんの一瞬で、すぐにいつもの笑みをモモに向ける。
 
「……すみません」
「怒ってないよ。ちゃんと話をしよう?」
「好きな人ができました」

 モモの言葉に、ハルは目を瞠る。
 
「好きな人……?」

 モモは抑揚を抑えた声で言った。

「はい。これからは、メイドとしてお世話になります、旦那様」

 モモはぺこりと頭を下げ、ハルに背中を向ける。

「……待って、モモ」
 
 ハルの声は動揺していた。
 逃げるように部屋を出ていこうとしたモモの手を、ハルが掴む。

「好きな人なんて、嘘だろ? なにをいじけてるの? しばらく留守にしたから? もう一人にしないから、機嫌直してよ」

 モモはその手をそっとほどき、振り返る。

「嘘じゃないです。本当です」
 
 ハルの声がわずかに震えた。
 
「……誰なの?」
「……それは……」
 
 モモは目を泳がせた。

「……トトさまです」
「トト?」

 今度こそ、ハルが傷付いた顔をした。モモは目を逸らし、早口で言葉を紡ぐと、頭を下げた。
 
「ハルさま。今までありがとうございました」

 逃げるように部屋を出る。

「モモ……」
 
 その声はこれまで聞いたことがないほど悲愴で、モモの胸を締め付けた。

(呼ばないで……)

 扉を閉めた瞬間、モモの瞳から涙が滑り落ちた。
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