妖狐とノブレス・オブリージュ
真実
事件が起こったのは、その翌日のことだった。
早朝、けたたましく開いた扉に、モモは思わず飛び起きた。
変化が中途半端に解け、モモの漆黒の髪からちょこんと大きな耳が顔を出す。
「……いた。あなたね。ハルを誑かした妖狐メイドは」
(……誰?)
回らない頭を必死に回転させ、状況を確認する。
入ってきた女は、美しかった。銀髪の長い髪に、深い紫色の瞳。銀髪はまるでシルクのように美しく輝き、肌も透けるように白い。
しかし、華奢なその手には、似つかわしくない大きな剣が握られている。
「……もしかして、ハルさまの……結婚相手の方ですか?」
恐る恐る訊ねると、女は笑って言った。
「サク・グランドラよ」
「あの……すみませんでした。私、ハルさまにそういったお相手がいることは知らなくて……」
(悪いのは私。ちゃんと謝らないと……)
モモは慌ててベッドから降りると、サクへ近づく。すると、サクは静かに剣をモモに向けた。
「……あなた、なにか勘違いしてない?」
「……え?」
瞬きをする。
モモは、刀を突きつけられているにも関わらず、どこか他人事のようにサクを見上げた。
「私はハルを誑かしたことを怒ってるわけじゃないのよ。ハルに怒ってるの」
サクはにこにこと可愛らしい笑顔を浮かべたまま、言う。
「待ってください。悪いのは私です。それにもう私たちはちゃんとお別れしました。やってしまったことは変えられませんが、これからはもうただのメイドとして……」
「違う違う。あなたは死ぬのよ。今ここで」
全身の毛が逆立つような感覚。サクは相変わらず笑顔で、それが無性にモモの心を粟立たせていく。
モモは言葉を失くし、立ち尽くした。
「あなた、本当になにも知らないのね」
サクはモモの喉元に切っ先を突きつけたまま、淡々と話し出した。
「私たちの本当の仕事のこと」
「本当の仕事……?」
「私たちはね、あなたのような魔物を駆逐して、特権階級の頂点に登り詰めたのよ」
サクの言葉の意味を理解するまで、少し時間を有した。
「あなたたちを殺して、私もハルもこの優雅な暮らしを手に入れたの」
「私たちを……殺して……?」
(……どういうこと……ハルさまは、私が妖狐だって、初めから知ってたってこと? でも、それならなんで殺さずに……)
頭の中がぐるぐるして、なにも分からない。
「あなたは、騙されてたのよ」
ただ、サクの冷ややかな言葉だけが、モモの心をざくざくと抉った。
(……どうしよう……でも、このままここにいたら殺される……)
今は考えている場合ではなかった。とにかく、逃げなければ。
サクの瞳を見つめる。深く息を吐くと、モモの瞳の色が深い赤色に変わった。
サクがハッとしたように飛び退くと、その一瞬の隙をついてモモはサクの横をすり抜け、逃げ出した。
「あっ! 待ちなさい!」
飛び出し、すぐ近くの角を曲がった瞬間、誰かと激しく衝突した。
派手に転ぶ。
ハッとして、腹を押さえた。
(赤ちゃん……)
大丈夫だっただろうか。受け身はとったつもりだが……。
「モモ?」
驚いた顔をしたハルが、モモの腕を優しくつかんだ。
「ハル……さま」
「どうしたの、そんなに慌てて。危ないよ」
(これは演技なのか……それとも)
うかがうようにハルを見つめる。すると、ハルがハッとしたように腕を持ち上げた。
「モモ、怪我してる。手当しよう」
モモはさっと手を引いた。
「モモ?」
「騙してたんですね……ずっと」
モモはじっとハルを見上げた。
「いつ殺すつもりだったんですか」
「……誰から聞いたの?」
「全部、嘘ですか。愛してるって言ったのも、ずっと一緒にいたいって言ったのも……」
伸びてきたハルの手を払い除け、立ち上がる。
「どうせ殺すなら……もっと早く殺してほしかった……こんなに好きになる前に殺してくれればよかったのに……こんなの、あんまりです」
「モモ。お願いだ。話だけでも聞いてよ」
そのとき、足音がした。サクだ。
「モモ、待って!」
モモは駆け出した。同時にサクが追いかけてくる。
「ちょっとハル! どうして逃がすのよ!」
「サク! 待って! モモはいいんだ!」
「なに言ってるの! ハル、目を覚まして!」
「モモは……」
「呆れた。本気であの子のこと好きだとか言うの?」
「モモはなにもしてない。ただ普通に人と同じように暮らしているだけだ」
「ハルが殺せないんだったら、私が殺す。邪魔しないで。言っておくけど、このことは報告するから。レオナルド家のランクが下がること、覚悟しなさいね」
サクは歩き出す。
「……あぁ。それから、婚約も破棄させてもらうわ。没落する貴族と結婚なんかごめんだから」
ハルが屋敷の外に出たときには、モモはサクに拘束され、首に銀色の首輪を嵌められていた。
ハルが叫ぶ。
「モモ!」
そのまま馬車に乗せられてしまう。
「モモ!」
ハルは馬車が見えなくなるまで、その場に立ちつくした。モモがハルを振り返ることは、一度もなかった。