妖狐とノブレス・オブリージュ
想い
ハルはぼんやりと窓の外を眺めていた。名も知らない小さな鳥が鳴きながら飛んでいる。
歌うように鳴く鳥たちのさえずりは、まるでモモの笑い声のようだった。
『ハルさま』
モモの声が聞きたい。モモに名前を呼んでほしい。こんなに胸を焦がしたことが、かつてあっただろうか。ハルは目を伏せた。
モモと初めて会ったあの日、ハルは一瞬で恋に落ちた。
大きな瞳はガラス玉のようで、吸い込まれるかと錯覚するほどだった。ふらふらと覚束無い足取りは、危なっかしくて放っておけない。
手を引いて歩きたい。彼女が自分に笑いかけてくれたら、どんなに可愛いだろう。彼女の瞳に映りたい。
モモがただの女の子なら、こんなに悩みはしなかった。
モモは妖狐だった。上手く化けてはいたが、人の気配がしなかった。
きっと自分の勘が間違っているのだと、異国の容姿が珍しかっただけだと無理やり言い聞かせ、声をかけた。
そもそも、あれが間違いだった。
人々の生活を脅かす魔物を退治することがハルの仕事だ。自分の手で殺せないなら、ハルはあの日、モモに声をかけるべきではなかった。
結局、彼女を傷付けるだけ傷付けて、ハルはなにもできないまま、モモの手を離してしまった。
「ハルさま、せめて着替えくらいなさった方がよろしいのでは」
トトがハルを見やる。
「……あぁ」
ハルは仕方なく立ち上がった。
背後で、トトが深いため息をついた。
「……なんだ、トト」
「いえ。ハルさまは思っていたより、薄情なお方なんだなと」
「……モモのことか?」
聞かずとも分かる。
「モモはあんなにハルさまハルさまだったのに……」
「今の彼女の恋人はトトだろう」
ハルが吐き出した言葉には、棘があった。主から恋人を奪ったくせに。けれど、文句を言う資格すら今のハルにはない。
「……嘘ですよ、あんなの」
「……嘘?」
ハルは動かしていた手を止め、トトを見た。
「あなたにあんなにべったりだったモモが、本当に私に乗り換えたとでも思ったんですか?」
「……え、違うの?」
「……ハルさまって、案外バカですよね」
「!?」
ハルはぎょっとしたようにトトを見る。
「……お前、なんか態度が……。……いや、だって本人にそう言われれば信じるだろう」
「……有り得ない」
トトはやれやれと肩を竦めている。ハルは意味が分からず、眉を寄せた。
「どういうことだ。分かりやすく説明してくれ」
「……あなたのためですよ、ハルさま」
トトは息を吐きながら言った。
「俺のため?」
「モモがあなたから離れようとしたのは、身ごもったからです。モモのお腹には、あなたの子がいるんですよ」
ハルが目を瞠る。トトは視線を落とし、悲しげに言った。
「でも、モモは妖狐だから、産まれてくる子はちゃんとした人間じゃないかもしれないからと、あなたと別れて一人で産もうとしていたんです」
トトの話に、ハルは呆然と立ち尽くした。
「モモはいつだってあなたのことばかりです。私がなにを言っても、全然聞きやしない……」
トトは拳を握った。
「あなたがいらないなら、私がもらう。このまま、モモとお腹の子を見殺しにするなら、私はあなたを絶対に許さない」
ハルは目を伏せた。
「……分かってる」
ハルは上着を手に取ると、扉に向かう。
「どちらへ?」
「サク・グランドラの屋敷へ行く」
トトはわずかに口角を上げて、ハルの後に続いた。