転生織姫の初恋

初めての気持ち


 織姫は家に帰る気にならず、駅前をふらふらしていた。歩き疲れて一人きりでベンチに項垂れていると、何度かチンピラのような男たちに絡まれたが、警察に電話するふりをして追い払った。
「先生のバカ……」
 好きだとか言ったくせに。織姫としか、体の関係なんて持ちたくないと言ったくせに。
「ちゃっかり女にモテてんじゃん」
 彦星にやすやすと触れていた羽咲が気に入らない。触れられて、彦星は驚いた顔をしていた。織姫が初めて触れたときと同じ顔。
 もし、あのとき織姫が声をかけなかったらどうなっていただろう。織姫の中でなにかが込み上げる。
「嘘つき……」
 織姫だけだと言ったあの言葉は、嘘だったのだろうか。織姫はまんまとあの男に騙されたのだろうか。
 まっすぐな、穢れを知らない子供のような瞳。彦星の無邪気な笑顔。優しく触れてくる手。全部、全部織姫のものだった。織姫が外で誰と遊ぼうが、彦星は悲しそうにしながらも強く咎めなかった。
「もっと……執着してくれると思ったのに……」
 すべてが幻だったのではないかと思えてしまう。
 織姫がひどい言葉を突きつけた瞬間の、彦星の泣きそうな瞳が忘れられなかった。疼き出した手首を庇うように、織姫は自身の手を抱き締める。
「なんで追いかけてきてくれないの? 先生」
 織姫はドロドロとした気持ちの悪い感情を振り払うように立ち上がり、ふらふらと歩き出した。
 織姫はこれまで、彦星のことを散々利用してきた。特別な感情などなかったはずだ。最初はただふとしたときに目が合うから、織姫に気があるのだと思い、欲を満たすための体の関係に誘った。
 しかし、彼への興味は、いつしか恋に変わっていた。
 いつの間にか、彦星のまっすぐな好意に、優しい手に、織姫の心は絆されていた。
 
 すべての始まりの日、真面目な彦星は、迷いながらも織姫の手を取った。きっと、織姫が「恋人になってあげる」と言ったからだ。ただの口先の言葉ひとつで、それまで抵抗していた彦星はあっさりと落ちた。
 そんなに恋人になりたいのか。ただ快感を分かち合うだけではダメなのだろうか。そこに愛があろうとなかろうと、その一時さえ気持ち良ければ、織姫はそれでいいと思っていた。
「あ……」
 気が付くと、彦星のアパートの前にいた。彼の部屋の窓を見る。部屋の明かりは付いていない。まだ帰っていないようだ。
 胸がじんとする。
 いつも子供のように慕ってきた彼は、羽咲の前では大人の男だった。最後に抱き合っていた二人の姿が蘇る。
「先生、会いたいよ……」
 どこにいるのだろう。数学教師の羽咲とホテルにでも行ったのだろうか。羽咲が彦星に惚れていることは知っていた。けれど、織姫にゾッコンな彦星が彼女になびくわけはないと高を括っていた。
「織姫も所詮、使い捨てなのかぁ……」
 織姫は彦星の部屋の前にしゃがみこみ、泣いた。

 それからどれくらい時間が経ったのだろうか。足音がしてふと顔を上げると、
「織姫?」
 織姫がしゃがみ込んだ玄関の前に、驚いた顔の彦星が立っていた。
「先生……っ!」
 織姫は堪えきれず、彦星に抱きついた。
「遅いよ。どうしてさっき追いかけてきてくれなかったの? なんで電話出てくれないの? 織姫、ずっと先生のこと待ってたのに」
 しかし、織姫の背中に彦星のぬくもりが伝うことはない。
「……先生?」
 不審に思い顔を上げると、そこには見たことのないほど冷たい表情をした彦星がいた。
「……先生? どうしたの?」
「あなたこそ、こんな時間になにをしているんです」
「先生を待ってたんだよ。織姫たちの関係のこと、どうなったかなって……ちゃんと、聞きたくて」
 不穏な空気を感じながらも、織姫はそれに、精一杯気付かないふりをする。しかし、その虚勢は彦星の冷たい一言で呆気なく崩れ落ちた。
「それならなんの心配もありませんよ」
「え……?」
「僕はもう教師ではないので」
「……どういうこと?」
「つい先程、校長に辞表を出してきました。僕はもう、養護教諭ではありません」
「先生……辞めるってこと?」
「はい」
 彦星は表情一つ変えずに頷く。
「私のせい?」
「違いますよ。あなたはなにも関係ない」
 それは、まるで二人の関係が潰えたことを知らしめてくるようで、織姫の胸は引き絞られるように苦しくなった。
「……教師を辞めたのなら、もう普通に会えるんだよね? 堂々とデートとかもできるんだよね? ねぇ、今日このまま泊まってもいい?」
 織姫は甘えた声を出し、彦星の腕に絡みつく。
「ダメです」
 しかし、彦星は織姫の手を優しく引き剥がした。
「……どうして?」
 彦星の腕の温もりが離れていく。
 そして、彦星は織姫に決定的な言葉を告げた。
「もう終わりにしましょう」
 織姫は硬直する。
「……そもそも、あなたは僕を愛してなどいないんですしね。……あなたはいつも私を試すようなことばかりしてくるし、正直うんざりしていたんですよ。あなたも、粘着的な私と離れられて良かったでしょう。これで誰になにも言われることなく男遊びができますしね」
「そ、そんなことしないよ。嫌だって言うなら、織姫もう他の子と遊んだりしないから。先生だけでいいから……」
 織姫の余裕のない声に、一瞬彦星の瞳が揺らぐ。しかし、その惑いはすぐに能面のような表情の奥に消え、
「……私はもう実家に帰るので、あなたとはここできっぱりお別れです」
 織姫の言葉に被せるようにそう告げると、彦星はくるりと背中を向けた。
「……お別れ……?」
「えぇ。短い間でしたが、楽しい時間をありがとうございました。では、お元気で」
 彦星は軽く頭を下げると、一度も織姫を見ることなく去っていく。
 織姫はしばらくその場に立ち尽くしていた。
 ぼんやりと空を見上げると、頬に冷たいなにかが触れる。雨が降り出した。たちまち勢いは強まり、織姫の冷えきった心をさらに冷たく濡らしていく。
 目の縁からなにかがとめどなく流れていくが、それが雨なのか涙なのか、織姫にはよく分からなかった。
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