転生織姫の初恋
深いため息をつく彦星に、カササギは哀れみの視線を向けた。
「ねぇ、いつまで織姫とこんな曖昧な関係を続けるの?」
「……曖昧なんかじゃない。織姫とは、ちゃんと付き合ってるんですから」
「じゃあそのため息はなに?」
彦星はカササギから目を逸らした。
「……分かりません……」
本心だった。織姫と恋人にはなれたのに、なぜこんなに心がざわめくのか。彦星とて分からないから悩んでいるのだ。
「もう諦めたら? あんなにひどい性格になってたら、もうあの頃の純粋な織姫には戻らないよ。それに、織姫はもう人間なんだから。織姫にとって君はただ都合のいい男だよ」
「……でも、いつか振り向いてくれるかもしれない」
「その前に彦星、君の異様さに気がつくよ。なんせ君は歳を取らないんだ。人間からしたら君は……」
カササギは途中で口をつぐんだ。彦星は自重気味に笑いながら呟く。
「妖か……」
「いずれ別れる運命なんだよ。やっぱり、傷が浅いうちに帰ろう。転生した織姫と結ばれるなんて無理だよ」
「……でもね、変わってないんです」
「え?」
「笑顔とかくすぐったがりなところとか、照れると首筋をなぞる癖とか、全部そのまま、あの頃の織姫のままなんですよ……」
「じゃあ、織姫があんなに性に奔放でもいいの? 君がこうしてる間、ほかの男と寝てても?」
カササギの問い詰めに、彦星はムッと口を尖らせた。
「それはヤダ」
机に突っ伏したまま、ちらりとカササギを睨む。
「というか、そういう意地の悪いこと言わないでくれませんか」
「とにかく、天界での織姫との記憶が残ってる今のうちに帰ろう。このままじゃ彦星が辛いだけだ」
「天界……その方がいいんでしょうか……」
彦星は視線を窓に向け、空を見上げた。窓枠の先に広がる空に雲はなく、鮮やかな青色の絵の具を落としたような空が広がっている。
カササギとともに悩んでいると、保健室の扉が開いたかと思えば、
「先生ー来たよ」
織姫が華やかな笑顔を称えて彦星に抱きつく。
「織姫。もう午前の授業は終わりですか?」
時計を見ると、既に昼休みの時刻になっている。
「うん! 先生に会いたくなっちゃって、急いできたの」
「僕も会いたかったです、織姫」
屈託のない彼女の笑顔を見ると、どうしても離れるという選択ができない。ぬいぐるみに扮したカササギの視線が痛い。
「先生、お昼食べないの?」
「……これから食べる予定ですが、あなたは?」
「んーお腹減ってないから織姫はいいかな。そもそも食べ物にそんなに執着ないから、いつも食べるわけじゃないし」
彦星は織姫の台詞に呆れながら、その小さなデコをぴんと張る。
「ダメですよ。それでなくてもあなたは細いんですから、ちゃんと食べないと」
つい説教じみた真似をしてしまう。
「先生ってばお母さんみたいだね」
織姫はコロコロと笑いながら、彦星の膝の上に座った。
「ねえ、先生。お昼ご飯よりキスして?」
織姫が甘えるような声を出し、キスをねだる。
「……ダメですよ。学校ですから」
彦星はわずかに残った理性で、自制した。
「いいじゃん。ちょっとくらい」
「ダメです」
織姫を降ろそうとする彦星に苛立ったのか、彼女はつんと拗ねたように口を尖らせ、
「じゃあほかの男の子のところいく」
その瞬間、彦星の中でドクン、と鼓動が弾むのが分かった。
「いいの?」
試すような視線に射抜かれ、彦星は瞳を揺らす。教師である今の彦星に求められるのは、彼女を突き放すことだ。
「僕は教師で、あなたは生徒なんです。風紀は……」
「そう。分かった。じゃ、お邪魔しましたー」
織姫はあっさりと彦星から離れ、保健室を出ていこうとする。その背中に、彦星への未練は微塵もない。きっと、このままでは織姫は彦星のところに戻ってはこないだろう。
「っ……待ってください」
今の彦星に余裕はなかった。
キスしてくれないならほかの男のところにいくだなんて、かつての織姫は絶対に言わないような言葉だ。
目の前の彼女は織姫ではない。記憶もなければあの頃の淑やかさもまるでない。
けれど……。
気が付けば、白衣から覗いた自身の手が織姫の細い腕を掴んでいた。
「先生?」
ほかの誰かが彼女に触れるなんて、どうして許せるだろうか。彦星の中に渦巻くのは、醜い嫉妬と独占欲。
「行かないでください、織姫……」
強く引き寄せると、そのまま強引に唇を奪う。
一瞬驚いたのか、織姫は目を見張った。しかし、すぐに満足そうにキスに応えてくるあたり、彦星の行動を読んでいたのだろう。
彦星の気持ちを分かっていて焚き付けてくる織姫が憎らしいのに、どうしても手放せない。
彦星の心は、分厚い靄に包まれていた。