色を失くした世界で、私はあなたに恋をした。
美玲が税務課へ行くと、一人の女性が立ち上がった。
「どうしました?」
美玲の同期の山木芹香だ。
「納税のご相談があるみたいで」
「わかりました」
「よろしくお願いします」
芹香のアイコンタクトに頷きながら、美玲は踵を返した。
そのまま廊下を歩いていると、
「藤咲さん」
背後から、彼の声がした。
ゆっくりと振り返ると、そこにいたのはやはり朝霞だった。
「あ……朝霞さん」
「ちょうど良かった。今から会計課に行くところだったんだ」
「監査の戻しですか」
「うん」
怜士は今監査事務局にいる。監査と会計課は、なにかと接点が多い。各課から上がってきた伝票を会計課が審査し支払った後、監査事務局が監査し、間違っていると思われる支払いの見直しをさせるからだ。課同士の話になるが、ぶっちゃけ仲はあまり良くない。
「……あの」
「今日は残業する?」
言葉が被り、一瞬お互いに口を噤んだ。
「……いえ。しないで帰るつもりです」
「それなら、飲みに行かない?」
「……私とですか?」
美玲は驚く。
(今日のことは忘れようって言ったのは、朝霞さんなのに)
「うん」
「嬉しいです……けど」
「彼氏が気になる……かな?」
「あ……いえ。彼氏は、今日は予定があるみたいなので」
咄嗟に口をついたのは、嘘だった。
(嘘……じゃない。きっと、彼は今日も女の子と遊んでるんだろうし)
無意識のうちに都合のいい解釈で言い聞かせる自分自身に、美玲は自嘲的な笑みを漏らした。
(いつもこんなことばっかりだな、私)
「……なんで笑ってるの」
「……え」
顔を上げると、そこには真剣な顔をした怜士がいた。
「上司に仕事を押し付けられて、君は嫌じゃないの? 毎日残業して、恋人に裏切られて、心は痛まないの?」
素手で頭をガツンと殴られたような気分だった。
「……それは」
怜士の言葉に、美玲はなにも言い返せない。
(嫌だけど……でも、断ってもっと状況が悪くなったらって思うと……怖いし)
けれど、このままでは自分で自分の首を絞め続けることもわかっている。美玲とて、学や芹香のように上司からの無茶ぶりをもっと上手くかわせたらと、何度願ったかわからない。
「どうしたらいいのかわかんないんです……。私の立場なんて、あってないようなものだし……私は、残業したってまだまだ半人前で……私に断る資格なんて」
(これまでは朝霞さんが上司だったから、無茶ぶりなんてされなかったし、むしろ手伝ってもらってた。でも、今はもう頼れる朝霞さんはいない……)
しばらく黙っていた怜士が、ポツリと言った。
「……じゃあ、代わりに殴ってやろうか」
「え?」
突然、怜士が吐き出した物騒な言葉に、美玲はギョッと顔を上げる。
「な、なに言って……」
「君にいつも仕事を押し付けてくるのは、山本係長だよね」
「え、ちょっと待っ」
怜士はいらだちを隠そうともせず、エレベーターに乗り込み、会計課へ向かう。美玲は慌ててその後を追いかけた。
会計課の部屋に入ると、怜士はまっすぐに会計課係長・山本宣雄のデスクへ向かった。
「山本係長」
「おぉ、朝霞君。なにかな、また戻しかな? 毎度のこと申し訳ないけど、お手柔らかに頼みたいなぁ……」
宣雄はへらへらと笑って怜士を見た。怜士はちらりとパソコンを確認し、一瞬だけ眉を寄せた。美玲には、宣雄のパソコンの画面を見ずともわかった。いつものように仕事もせず、のんびりとネットサーフィンでもしていたのだろう。
「いえ。そうでなく。会計課と監査事務局で主催する新採用向けの研修の件なんですが」
「あぁ、うん。毎年五月にやるあれね。それがどうした?」
「伝票審査に関する会計課用の研修資料が、庁舎移転の際に紛失してしまったみたいなんです。こちらの不手際で申し訳ないのですが、新しいものを山本係長にお願いしたいんです」
(なんだ……殴るなんて言うから驚いたけど。ただ仕事を頼んだだけか)
美玲はホッと胸を撫で下ろした。
「あぁ、うん。いいよ、わかったよ」
「ありがとうございます。では、よろしくお願いします」
宣雄が了承すると、怜士はあっさりと帰っていく。美玲がその背中を見送っていると、ふとスマホが振動した。
『今夜、あのバーで待ってる』
怜士から、二度目のお誘いだった。美玲は戸惑いながらも、了解の返事を送ったのだった。