色を失くした世界で、私はあなたに恋をした。
アパートに帰ると、美玲のベッドには恋人の谷口臣がいた。
「……おはよう。また残業?」
「あ……うん。ごめんね帰って来れなくて」
後ろめたさから、美玲は臣と目を合わせられない。
「別にいいけど。連絡したのに返信ないから心配したよ」
「ご、ごめん。気が付かなくて」
ぎこちない笑みを浮かべ、美玲は臣に背中を向けた。
(気付かなかった……)
ぼんやりと考えていると、おもむろに腕を強く引かれ、ベッドに組み敷かれた。
「! ……な、なにするの」
「……美玲見てたら抱きたくなっちゃった」
臣は美玲を見下ろす。
その視線に、ヒヤリと嫌な汗が美玲の背中を流れていった。
「ねぇ、いい?」
「えっ……ちょっ、待って! お願い!」
臣の指が美玲の首筋をなぞっていく。……と、一瞬首筋をなぞる手が止まり、臣が目を見開いた。
(どうしたんだろう……?)
「臣君?」
「……なんてね。残業で疲れてるでしょ。今日はなにもしないから、ゆっくり休みなよ」
臣はぎこちない笑みを浮かべ、パッと離れた。薄れていく体温にホッとしながら、美玲は乱れたシャツを整えた。
「う、うん……ありがとう」
「……じゃあ、俺ちょっと出かけてくる」
恋人の手が離れたことにホッとしている自分自身に罪悪感を募らせ、美玲はその背中にかける言葉をさがす。
「あ、臣君……ごめんね」
「……いいよ。ゆっくり休んで」
耳元でそう囁くと、臣はそのまま部屋を出ていった。臣の気配が消え、静かな部屋の中で、美玲は自分自身を抱き締めるようにうずくまった。
(とりあえず着替えよう……)
スーツを脱ぎ、部屋着に着替える。ふと姿見を見ると、首筋に赤い痕があった。
美玲は青ざめる。
(そ、そうだ。昨日朝霞さんに……)
怜士に付けられた痕に昨夜の出来事を思い出し、瞬時に顔が赤くなる。
しかし、その熱は一瞬にして冷めていく。
(そういえば、さっき臣君に首筋触られたけど……み、見られてないよね?)
そのとき。
――ピーンポーン。
インターホンが鳴った。美玲は慌てて着替えを済ませ、玄関に向かう。
「はーい……って、え!? 朝霞さん!?」
扉を開けるとそこにいたのは、つい先程別れたはずの怜士だった。
「こら。女性のひとり暮らしなのに、いきなり出たらダメでしょう。なんのためにインターホンがあるの」
「あ……す、すみません」
(そこ怒るんだ……なんだかお父さんみたいだな)
「って、それよりどうして」
「これ。車に置き忘れてたよ。月曜日でもいいかと思ったけど、まだ近くを走ってたから」
怜士が持ってきたのは、美玲が車に置き忘れたらしいボールペンだった。
「あ……わざわざありがとうございます」
美玲は受け取りながら礼を言う。
(バッグから出した記憶なかったのに)
「……一人?」
「はい」
「そう。なら良かった。恋人がいたら気まずいもんね。昨日俺、君の体にたくさん痕付けちゃったから」
意地の悪い笑みを浮かべ、怜士は美玲の耳元で囁く。
「うっ……そ、そうです……ね」
「じゃあまた月曜日に」
そう言って、怜士は美玲に触れるだけのキスをする。
「!!」
「まったく、あんまり男に隙見せちゃダメだよ」
(またからかわれた……!)
「あ、朝霞さんてば……!!」
「じゃ、またね」
怜士が帰ると、美玲はベッドにダイブした。顔に集まった熱が未だ冷めやらない。言葉にならない思いが胸に溢れ、美玲の思考を支配する。
(どうしてあんなこと……)
思わず唇を指でなぞると、数分前の怜士の顔がよぎる。心底楽しそうに、その瞳は美玲を捕らえていた。
(私は……単なる暇つぶし?)
怜士はまるで蜘蛛のようだ。美しく強力な糸で、美玲のことを雁字搦めにしていく。
――ピコン。
スマホが鳴る。見ると、臣からだった。
『今日はこのまま帰る。ゆっくり休んでね』
その文字を見た瞬間、沸騰しそうなほど熱くなっていた心は、あっという間に冷えていった。
(私、なに考えてるの……臣君がいるのに)
「最低だ……」
(浮気してるのは、私も一緒じゃん……)
ならば、臣と別れればいいのか。そう思った瞬間、どっと罪悪感が荒波のように押し寄せた。
(朝霞さんと上手くいきそうだから? 臣君を捨てて乗り換えるの?)
信じられないことを考えた自分に、美玲はゾッとした。
「ないないっ……朝霞さんはただ遊んでるだけなんだから!」
(きっと、私なんて朝霞さんにとってはなんでもないんだから)
美玲は自分自身に無理矢理そう言い聞かせ、強く目を瞑った。