新そよ風に乗って 〜幻影〜
明良さんは、何かを知っているんだ。ミサという人のことを、明良さんは知ってる。
「明良さん。ご存じなんですか?」
「……」
「明良さん?」
明良さんは、黙ったまま私の顔をジッと見つめている。だが、先ほどのような動揺した表情は既に消えていた。
「それでなの?」
エッ……。
「それで、泣きながら走ってきたの?」
「は……い」
まさか、高橋さんに間違えられてキスされたとは、どうしても自分から言えない。言ったら、また泣いてしまいそうだから。
「そうなんだ。陽子ちゃん。人違いされたんだね」
そう言うと、明良さんは前を向いて煙草に火を付けて思いっきり肺にニコチンを吸いこむと、運転席の窓を少し開けて外に向かって煙を吐き出した。
明良さん……。
決意を固めて聞いたのに、明良さんがいとも簡単に片付けてしまいそうな言い回しをしたので、何だか拍子抜けしてしまった。
「陽子ちゃんさあ……。この前、過去に囚われないで、今を見た方がいいと言ったよね?」
「はい」
「人間って、誰しも誰にも知られたくない過去が、1つや2つはあるんだよ」
明良さん。
知られたくない過去?
「だから、今日聞いた名前のことは、忘れた方がいい」
忘れた方がいいって……。忘れられるのだったら、私だって今直ぐ忘れたい。名前を聞いたぐらいだったら、まだ良かった。
でも……。
「名前を聞いただけなら……。それだけだったら私……どんなに良かったか」
独り言のように言いながら、また涙が溢れていた。
「それだけって、陽子ちゃん?」
「それなら、どんなに……」
「陽子ちゃん。貴博と何があったの? 正直に、話してくれないかな?」
明良さんが、私の左肩を右手で掴んで軽く揺すった。
「高橋さんが……高橋さんが、ミサさんと私を間違えて……キスを……」
「はあ……」
溜息とも落胆とも取れる、声にならない声を明良さんは発すると私を抱きしめた。
「ごめんね。辛いことを言わせてしまって。陽子ちゃん。辛かったね。辛かったな」
明良さんの胸の中で、さっきは堪えられていたものが一気に吹き出したように、それが大きな声となって心の奥にしまっていた感情が露わになってしまっていた。
「泣いていいよ。思いっきり」
明良さんはそう言うと、ずっと私が泣き止むまで胸を貸してくれていた。
少し落ち着いてきて明良さんから離れてから、もう一度聞いてみた。
「明良さん。ミサさんという人は、高橋さんの忘れられない人ですか?」
「……」
「やっぱり、そうなんですね?」
「……」
黙ったまま、明良さんは何も言ってはくれなかった。
「やっぱり、そうなんですね……」
< 167 / 230 >

この作品をシェア

pagetop