捨てられた聖女と一途な騎士〜元婚約者に浮気された挙句殺されてタイムリープしたので、今度は専属騎士と幸せになります!でも彼が妾出の王太子だなんて聞いてません〜
二十二、エステルの現在
書庫の奥の間に入ったものの、書類の場所は分かったがファイルを取り出して懐のものと入れ替えるチャンスがなかなか巡ってこなかった。
刻一刻と時間が過ぎ、エステルが掃除しながら内心焦れていた時──神殿女官がキンバリーを呼びにやってきた。
「キンバリー様、聖女様が儀式の衣装について聞きたいことがあるとおっしゃっていますが……」
「ローズ様が?」
口に布を巻いて埃を払っていたキンバリーが、顔を上げた。そしてエステルの方を見て悩むような表情をする。
掃除はまだ途中だ。キンバリーが部屋を出るなら書庫に鍵をかけるから、エステルも出て行かねばならないだろう。
掃除も終わりになるかもしれない。そう思うと、エステルは焦った。
「キンバリー様! ここは私に任せて行ってください!」
とっさに、そんな言葉が口から出ていた。
「え? でも……」
躊躇するキンバリーに、エステルは胸を叩いて見せる。
「わ、私にだって、一人で書庫の掃除くらいできますからっ! キンバリー様が戻られるまで、隅々まで掃除しておきます!」
そう力強く言ったおかげだろう。キンバリーは少し戸惑いつつも、「まあ、そうですね。すぐ戻りますから大丈夫でしょう。ここから離れないでくださいね」と言って立ち去った。
(やった……!)
突然訪れた好機に、エステルは笑みがこぼれそうになるのを抑えられなかった。
推薦状はきれいに折って懐にしまってある。書類の場所も分かっている。後は入れ替えるだけだ。
はやる心のままファイルに手を伸ばして広げてから──。
「何しているの?」
そう突然、背中に声をかけられた。
いつの間にか、エステルのすぐ後ろに顔見知りの神殿女官が立っていた。
「え!?」
(彼女は……ルシア? どうして、ここに……)
ほとんど会話したことはないが、同期なので名前は知っている。ピンク色の髪に男性受けしそうな愛らしい顔立ちの少女だ。
動揺のあまり固まってしまったエステルから、ルシアは書類を奪い取る。
「あっ、それは……!」
手を伸ばしたが、ルシアは高い位置に書類を掲げている。そして眉をひそめた後、つぶやいた。
「推薦状が二枚……? って、はは~ん? どういうことか分かっちゃった。神殿女官ともあろう者が書類を偽造して良いと思っているの? そんなことしているのがバレたら神殿から追放よ」
ルシアは意地悪そうに口角を上げている。
エステルは血の気が引くのを感じた。慌てて、その場に跪いた。
「お、お願い! そのことは黙っていて欲しいの! 私には貧しい家族がいて、今ここを辞める訳には……っ」
必死になって、自分の過去を告白する。どうにか同情を誘えないか必死だった。
だが──。
「あなたの事情なんて、どうでも良いわ」
ぴしゃりとルシアは撥ね除けた。そして、エステルの耳元に唇を近づけて邪悪に笑う。
「黙っていて欲しかったら……私のお願い聞いてくれるわよね?」
それからは、エステルはルシアの言いなりになるしかなかった。
掃除を代わったり、パシリになったりは当たり前。エステルが褒められるようなことをすれば、実はルシアが陰で行っていたことだった、と主張されて手柄を横取りされた。
──けれどエステルには不満を口にすることもできなかった。
本物の推薦状はルシアに取られてしまった。あれから何度も取り返そうとしたが返してくれず、ルシアの部屋には鍵がかかっていてどこに仕舞われているのかも分からなかった。
そんなことが二年ほど続いたある日、事態が急変する。
ルシアが聖女ローズの手によって、神殿から追放されたのだ。
(やった……! やっぱり、ローズ様は素晴らしい方だわ。私の救世主……!)
大っぴらには言えないが、エステルは誰よりローズに感謝していた。他にもルシアによって不遇をこうむってきた神殿女官もいたので、彼女達からもローズは影ながら崇拝されていた。
その上、聖女候補に抜擢されて驚いたが、とても嬉しかった。
自信のなさからミスばかりするエステルにローズは優しく声をかけてくれる。
「一日にやることを手帳に書いておけば良いのよ」
そそっかしいエステルも、ローズの言葉通りにすればうまくいった。背中を押してもらえているような気分になったからかもしれない。
(もう罪を暴かれることに不安にならなくて良いのかもしれない……)
ルシアはもういない。女官長キンバリーも今まで気付かなかったのだ。きっと、これからも大丈夫だろう。
推薦状はルシアが神殿を出る時に持って行ってしまったらしく、彼女が使っていた部屋の残り物の中にもなかった。けれど、きっともう捨ててしまったに違いない。もう大丈夫だ、とエステルは思い込もうとした。
けれど貧民街イシュタークでルシアを見かけた、その数日後──エステルの元に手紙が届いた。
それは名無しだったが、嫌な予感をおぼえて開く。
そこに書いてあったのは、ルシアから『明日の正午、バラムの酒場裏に来い』という命令だった。
エステルは迷いながらも翌日、神殿を抜け出して酒場裏に向かった。聖衣の上に身分が知られないようにローブを羽織った姿で。
人けのない建物の隙間の路地で、ルシアは背をもたれていた。エステルを見るなり不機嫌そうに腕組みをしたまま「遅い」と文句を言う。
「ご、ごめんなさい……っ! なかなか出てこられなくて」
そう言いかけたエステルの脛をルシアは思いきり蹴りつけた。
「……っ」
痛みでうずくまるエステルの肩口を、ルシアは汚れたブーツで踏みつける。どこかのぬかるみでも踏んだのか、泥がこびりついた靴裏で。
「聖女候補になったんですって? えらく出世したものじゃない。いつもビクビク、おどおどしていたあんたが……。神官様に色仕掛けでもしたのかしら?」
「そっそんな……! 私は何も……」
「口答えすんな!」
そのままブーツのかかとで横面を蹴られ、衝撃で目の前が真っ白に染まった。口内に血の味が広がる。そして地面に倒れ込んだ。
(我慢していれば、すぐに終わるから……)
ルシアの暴力は日常茶飯事だ。バレないように腹部や足を狙われることが多いが、顔のように見える箇所にされた時は『自分の治癒魔法で治せ』と命じられる。
ルシアは身を屈めて、凶悪な顔でエステルの髪を乱暴につかみ上げた。「うう……」とエステルは苦痛にうめく。
「ねえ、あんたの推薦状……まだ私が持っていること分かってるの? あれを公表したら、あんたは終わりよ。聖女候補どころか神殿にもいられなくなる。せっかく聖女候補になれたのに残念ねぇ。故郷の家族にも前よりたくさんお金を渡せていたのに。王都に出てきた娘は書類偽造で神殿から追放かぁ。村の人達はどう思うかしらね? ああ、そうなったら、もう恥ずかしくて村には帰れないかぁ」
アハハ、と楽しげにルシアは笑う。
エステルは涙が出てくるのを抑えられなかった。
(私はなんて愚かなことをしてしまったんだろう……)
けれど、もし同じ状況になっても、きっとまた同じことをしてしまう。もう、あばら骨が浮いた弟達の姿は見たくなかった。
「そうされたくなかったら……私のお願い聞いてくれるよね?」
ルシアはニタニタと嫌な笑みを浮かべながら、エステルに耳打ちした。その衝撃の内容にエステルは青ざめる。
「な……っ、そんなことできないわ……!」
「何もローズを毒殺しろとか言っているわけじゃないでしょう? 王太子の儀の時にあなたの侍女として王宮に入れてって頼んでるだけじゃない」
「で、でも……」
躊躇したエステルの頬をルシアは平手打ちした。
「でもじゃない! やるんだよ愚図! じゃないとお前がしたことバラすわよ! このブス眼鏡がッ!! お前は黙って言うことを聞いてりゃ良いの!」
ルシアに罵られて、エステルは腫れた頬を手で覆い──諦観の思いで、小さくうなずくことしかできなかった。
◇◆◇
その日の午後、ローズはハラハラしながらエステルの帰りを待っていた。密かにつけていた見張りの一人から、エステルがお昼に神殿を出たと聞いたからだ。
お昼の休憩は長めにあるので市街へ出かける者もいるが、エステルは普段閉じこもって部屋で過ごすことが多かった。
見張りの方が先に戻ってきて報告がもたらされた。それはルシアがエステルに接触し、暴行を加えたということだ。会話の内容までは聞き取れなかったが、どうやら脅されているようだったと。
それを聞いた時、ローズの頭に血が昇った。
(そんな状況なら、見てないでエステルを助けなさいよ……!)
そう憤ったが、彼らはローズの『エステルに気付かれないように見張りをしなさい』という命令を忠実に守っていただけである。叱るのは筋違いだ。
ローズは頭を抱えて、ため息を落とした。
(浅慮だったわ……)
まさか、ルシアが暴力まで行使しているとは思っていなかったのだ。
沈痛な表情で黙り込んでいるローズに、見張りを任せた男の一人が困ったように「あの……」と口にする。
「ご苦労様。これからも見張りを続けて」
ローズのその端的な言葉に、彼は一礼をして去って行った。
気持ちを落ち着けるために紅茶を飲んでいたローズの元へ、エステルが戻ってきた。休憩時間が終わったのだろう。報告を受けていたような傷は頬にはない。ただ、何かを隠そうとしているような、ぎこちない笑みを浮かべている。
「エステル……、大丈夫? 打ったような痕があるわ」
ローズはそう言いながらエステルの頬に触れた。
──嘘だ。エステルの治癒の甲斐あって、傷は跡形もない。
しかしエステルはローズの言葉を真に受けたのだろう。驚いたような表情をした後、視線を揺らして目蓋を伏せる。
「私、ほんとそそっかしくて……ダメな神殿女官なんです」
何かを耐えるように笑うエステルが痛々しくて、見ていられなかった。
ローズは何の救いにもならないと分かっていたが、エステルの頬にあてた手のひらから治癒の力を流す。
「あたたかい……」
エステルはそう微笑むと、ぽろりと涙をこぼした。
ローズはそっと彼女を抱きしめる。
(ルシア……絶対に許さないわ……!)
──そう決意を胸に秘めて。
刻一刻と時間が過ぎ、エステルが掃除しながら内心焦れていた時──神殿女官がキンバリーを呼びにやってきた。
「キンバリー様、聖女様が儀式の衣装について聞きたいことがあるとおっしゃっていますが……」
「ローズ様が?」
口に布を巻いて埃を払っていたキンバリーが、顔を上げた。そしてエステルの方を見て悩むような表情をする。
掃除はまだ途中だ。キンバリーが部屋を出るなら書庫に鍵をかけるから、エステルも出て行かねばならないだろう。
掃除も終わりになるかもしれない。そう思うと、エステルは焦った。
「キンバリー様! ここは私に任せて行ってください!」
とっさに、そんな言葉が口から出ていた。
「え? でも……」
躊躇するキンバリーに、エステルは胸を叩いて見せる。
「わ、私にだって、一人で書庫の掃除くらいできますからっ! キンバリー様が戻られるまで、隅々まで掃除しておきます!」
そう力強く言ったおかげだろう。キンバリーは少し戸惑いつつも、「まあ、そうですね。すぐ戻りますから大丈夫でしょう。ここから離れないでくださいね」と言って立ち去った。
(やった……!)
突然訪れた好機に、エステルは笑みがこぼれそうになるのを抑えられなかった。
推薦状はきれいに折って懐にしまってある。書類の場所も分かっている。後は入れ替えるだけだ。
はやる心のままファイルに手を伸ばして広げてから──。
「何しているの?」
そう突然、背中に声をかけられた。
いつの間にか、エステルのすぐ後ろに顔見知りの神殿女官が立っていた。
「え!?」
(彼女は……ルシア? どうして、ここに……)
ほとんど会話したことはないが、同期なので名前は知っている。ピンク色の髪に男性受けしそうな愛らしい顔立ちの少女だ。
動揺のあまり固まってしまったエステルから、ルシアは書類を奪い取る。
「あっ、それは……!」
手を伸ばしたが、ルシアは高い位置に書類を掲げている。そして眉をひそめた後、つぶやいた。
「推薦状が二枚……? って、はは~ん? どういうことか分かっちゃった。神殿女官ともあろう者が書類を偽造して良いと思っているの? そんなことしているのがバレたら神殿から追放よ」
ルシアは意地悪そうに口角を上げている。
エステルは血の気が引くのを感じた。慌てて、その場に跪いた。
「お、お願い! そのことは黙っていて欲しいの! 私には貧しい家族がいて、今ここを辞める訳には……っ」
必死になって、自分の過去を告白する。どうにか同情を誘えないか必死だった。
だが──。
「あなたの事情なんて、どうでも良いわ」
ぴしゃりとルシアは撥ね除けた。そして、エステルの耳元に唇を近づけて邪悪に笑う。
「黙っていて欲しかったら……私のお願い聞いてくれるわよね?」
それからは、エステルはルシアの言いなりになるしかなかった。
掃除を代わったり、パシリになったりは当たり前。エステルが褒められるようなことをすれば、実はルシアが陰で行っていたことだった、と主張されて手柄を横取りされた。
──けれどエステルには不満を口にすることもできなかった。
本物の推薦状はルシアに取られてしまった。あれから何度も取り返そうとしたが返してくれず、ルシアの部屋には鍵がかかっていてどこに仕舞われているのかも分からなかった。
そんなことが二年ほど続いたある日、事態が急変する。
ルシアが聖女ローズの手によって、神殿から追放されたのだ。
(やった……! やっぱり、ローズ様は素晴らしい方だわ。私の救世主……!)
大っぴらには言えないが、エステルは誰よりローズに感謝していた。他にもルシアによって不遇をこうむってきた神殿女官もいたので、彼女達からもローズは影ながら崇拝されていた。
その上、聖女候補に抜擢されて驚いたが、とても嬉しかった。
自信のなさからミスばかりするエステルにローズは優しく声をかけてくれる。
「一日にやることを手帳に書いておけば良いのよ」
そそっかしいエステルも、ローズの言葉通りにすればうまくいった。背中を押してもらえているような気分になったからかもしれない。
(もう罪を暴かれることに不安にならなくて良いのかもしれない……)
ルシアはもういない。女官長キンバリーも今まで気付かなかったのだ。きっと、これからも大丈夫だろう。
推薦状はルシアが神殿を出る時に持って行ってしまったらしく、彼女が使っていた部屋の残り物の中にもなかった。けれど、きっともう捨ててしまったに違いない。もう大丈夫だ、とエステルは思い込もうとした。
けれど貧民街イシュタークでルシアを見かけた、その数日後──エステルの元に手紙が届いた。
それは名無しだったが、嫌な予感をおぼえて開く。
そこに書いてあったのは、ルシアから『明日の正午、バラムの酒場裏に来い』という命令だった。
エステルは迷いながらも翌日、神殿を抜け出して酒場裏に向かった。聖衣の上に身分が知られないようにローブを羽織った姿で。
人けのない建物の隙間の路地で、ルシアは背をもたれていた。エステルを見るなり不機嫌そうに腕組みをしたまま「遅い」と文句を言う。
「ご、ごめんなさい……っ! なかなか出てこられなくて」
そう言いかけたエステルの脛をルシアは思いきり蹴りつけた。
「……っ」
痛みでうずくまるエステルの肩口を、ルシアは汚れたブーツで踏みつける。どこかのぬかるみでも踏んだのか、泥がこびりついた靴裏で。
「聖女候補になったんですって? えらく出世したものじゃない。いつもビクビク、おどおどしていたあんたが……。神官様に色仕掛けでもしたのかしら?」
「そっそんな……! 私は何も……」
「口答えすんな!」
そのままブーツのかかとで横面を蹴られ、衝撃で目の前が真っ白に染まった。口内に血の味が広がる。そして地面に倒れ込んだ。
(我慢していれば、すぐに終わるから……)
ルシアの暴力は日常茶飯事だ。バレないように腹部や足を狙われることが多いが、顔のように見える箇所にされた時は『自分の治癒魔法で治せ』と命じられる。
ルシアは身を屈めて、凶悪な顔でエステルの髪を乱暴につかみ上げた。「うう……」とエステルは苦痛にうめく。
「ねえ、あんたの推薦状……まだ私が持っていること分かってるの? あれを公表したら、あんたは終わりよ。聖女候補どころか神殿にもいられなくなる。せっかく聖女候補になれたのに残念ねぇ。故郷の家族にも前よりたくさんお金を渡せていたのに。王都に出てきた娘は書類偽造で神殿から追放かぁ。村の人達はどう思うかしらね? ああ、そうなったら、もう恥ずかしくて村には帰れないかぁ」
アハハ、と楽しげにルシアは笑う。
エステルは涙が出てくるのを抑えられなかった。
(私はなんて愚かなことをしてしまったんだろう……)
けれど、もし同じ状況になっても、きっとまた同じことをしてしまう。もう、あばら骨が浮いた弟達の姿は見たくなかった。
「そうされたくなかったら……私のお願い聞いてくれるよね?」
ルシアはニタニタと嫌な笑みを浮かべながら、エステルに耳打ちした。その衝撃の内容にエステルは青ざめる。
「な……っ、そんなことできないわ……!」
「何もローズを毒殺しろとか言っているわけじゃないでしょう? 王太子の儀の時にあなたの侍女として王宮に入れてって頼んでるだけじゃない」
「で、でも……」
躊躇したエステルの頬をルシアは平手打ちした。
「でもじゃない! やるんだよ愚図! じゃないとお前がしたことバラすわよ! このブス眼鏡がッ!! お前は黙って言うことを聞いてりゃ良いの!」
ルシアに罵られて、エステルは腫れた頬を手で覆い──諦観の思いで、小さくうなずくことしかできなかった。
◇◆◇
その日の午後、ローズはハラハラしながらエステルの帰りを待っていた。密かにつけていた見張りの一人から、エステルがお昼に神殿を出たと聞いたからだ。
お昼の休憩は長めにあるので市街へ出かける者もいるが、エステルは普段閉じこもって部屋で過ごすことが多かった。
見張りの方が先に戻ってきて報告がもたらされた。それはルシアがエステルに接触し、暴行を加えたということだ。会話の内容までは聞き取れなかったが、どうやら脅されているようだったと。
それを聞いた時、ローズの頭に血が昇った。
(そんな状況なら、見てないでエステルを助けなさいよ……!)
そう憤ったが、彼らはローズの『エステルに気付かれないように見張りをしなさい』という命令を忠実に守っていただけである。叱るのは筋違いだ。
ローズは頭を抱えて、ため息を落とした。
(浅慮だったわ……)
まさか、ルシアが暴力まで行使しているとは思っていなかったのだ。
沈痛な表情で黙り込んでいるローズに、見張りを任せた男の一人が困ったように「あの……」と口にする。
「ご苦労様。これからも見張りを続けて」
ローズのその端的な言葉に、彼は一礼をして去って行った。
気持ちを落ち着けるために紅茶を飲んでいたローズの元へ、エステルが戻ってきた。休憩時間が終わったのだろう。報告を受けていたような傷は頬にはない。ただ、何かを隠そうとしているような、ぎこちない笑みを浮かべている。
「エステル……、大丈夫? 打ったような痕があるわ」
ローズはそう言いながらエステルの頬に触れた。
──嘘だ。エステルの治癒の甲斐あって、傷は跡形もない。
しかしエステルはローズの言葉を真に受けたのだろう。驚いたような表情をした後、視線を揺らして目蓋を伏せる。
「私、ほんとそそっかしくて……ダメな神殿女官なんです」
何かを耐えるように笑うエステルが痛々しくて、見ていられなかった。
ローズは何の救いにもならないと分かっていたが、エステルの頬にあてた手のひらから治癒の力を流す。
「あたたかい……」
エステルはそう微笑むと、ぽろりと涙をこぼした。
ローズはそっと彼女を抱きしめる。
(ルシア……絶対に許さないわ……!)
──そう決意を胸に秘めて。