新そよ風に乗って 〜焦心〜
「美味しかったですね」
お腹がいっぱいになって、帰り際、電車で帰ると言ったけれど、私を送っていってもそう大差ないからと高橋さんは家まで送ってくれた。
「送って下さって、ありがとうございました。おやすみなさい」
潜在的に、高橋さんの話を聞きたくなかったからか、自分から助手席のドアを開けて出ようと、それまで緊張しながら膝の上に置いていた左手を伸ばした。
「お前。遠藤と、何かあったのか?」
エッ……。
な、何で、急にそんなことを聞くんだろう?
あっ。まさか、もう噂になってしまってるの?
「い、いえ……何も……」
聞きたくない名前。
高橋さんに対して、とても後ろめたさを感じてしまう。
でも、後悔したところで始まらないし、遠藤主任にキスをされたことは、紛れもない事実で消せるものでもない。すべて、私の気の緩みから起きてしまったことで……。
「そうか。それならいいが」
助手席に座っているにも関わらず、地に足がついてないというか、膝がガクガク震えているのが自分でも分かる。手も小刻みに震え出していて、それを隠す為にまた膝の上で両手を組んだが、力を込めて組んでいるのに抑えようとしても震えが止まらない。
「は、はい。それじゃ、おやすみなさい」
バッグを両手で抱えて、今度こそ車から降りようとしてドアに手を掛けた。
「じゃあ、遠藤がお前とキスしたとかいうのは、あいつのハッタリか……」
車から降りようとしていた私の背中に向かって、高橋さんが耳を塞ぎたくなるような言葉を、まるで独り言のように投げかけた。
その言葉に固まってしまったのと同時に、驚きと戸惑いが入り交じって、高橋さんに背を向けたまま、怖くて後ろを振り向くことが出来なかった。
「ん? どうなんだ?」
ああ。どうしたらいいの? 何と言ったら……。
それは、遠藤さんのハッタリですとも言えないし、かといって、遠藤さんの言ったことは本当ですとも言いづらい。
ハッ!
焦りながら言葉を探していると、高橋さんの手が後ろから私の両肩に触れた。
どうしよう……。
「お前、震えてる」
嘘。
高橋さんが、両肩を持つ手に少し力を込めた。
「そのままでいいから、聞いてくれ」
返事をしたかったが、声が上手く出せなくて頷いた。
「もし、1人で手に負えないことがあったのなら、俺は何時でも相談に乗る。当然、それは、上司としての務めだとも思ってる。それと同時に、人としてあるべき姿だともな」
高橋さん……。
「俺にとって、それは使命感の醸成なんだ」
高橋さんの使命感の醸成。
「人には、あらゆることに対して権利が生じる。だが、それは自由を得るための裏返しでもある」
自由を得るための裏返し?
「権利には義務が、自由には責任が伴う。権利を得たら、そこに義務が生じる。自由を得たら、そこに責任が伴う」
権利には義務が、自由には責任が伴う。
「何でも自由に、自分の思い通りに事を進めれば、そこには必ず責任が伴うんだ。その責任を果たさないまま、思い通りに出来たら世の中は成り立たない。出来るはずがない」
背中越しに聞こえてくる高橋さんの口調は、穏やかだったが、凛とした確固たる信念のような口調に感じられた。
「いつでも、話は聞く。解決の糸口は、必ず見つかるはずだ。家に帰って気持ちを落ち着けて、それでも辛く眠れなかったら電話しろ。何時でも構わない」
「高橋さん……」
後ろで車のドアが開く音がして、高橋さんが車から降りたのか、エアコンが効いていた車内に寒風が吹き込んだ。
そして、助手席のドアを高橋さんが開けてくれたので、車から降りて黙ってお辞儀をした。
「おやすみ」
「……おやすみなさい。送って下さって……いろいろありがとうございました」
顔を上げて、高橋さんの顔が見られなかった。
すると、高橋さんは私の髪をクシャッとすると、そのまま何も言わずに車に乗った。
心配してくれていたのだから、もっと何か言わなければいけなかったのに……。何も言えないままテールランプを少し見つめていたが、涙が溢れてきて慌ててマンションの玄関に入った。何も慌てなくても、あれだけ遠かったら高橋さんにバレることなんてないのに……。
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