新そよ風に乗って 〜焦心〜
「嘘……」
思わず声が出てしまった。
半信半疑だったので、もう1度覗いたが、間違いなくドアスコープの向こうには高橋さんが立っている。
慌てて、ドアチェーンを外してドアを開けた。
「来た」
高橋さんは、ひと言そう言って私の顔をジッと見た。
「あの……」
「電話じゃ、会話が成り立たなかったから来た」
高橋さん。
「風邪ひくといけないから、ドアを閉めてもいいか?」
「あっ。は、はい。すみません。どうぞ、お上がり下さい」
自分のことばかり考えてしまっていて、すっかり部屋に案内するのを忘れていた。
慌ててスリッパを出すと、高橋さんはドアを閉めた。
「お邪魔する」
「あの、今、お茶を……」
うわっ。
キッチンに向かおうとした私を、高橋さんが腕を掴んで引き留めた。
「構わない。時間も時間だから、座って」
「はい……」
自分の部屋なのに、高橋さんに誘われるようにしてソファーに座ると、少しだけ距離を置いて高橋さんも座った。
「今は、勤務時間でもない。だが、仕事の話として割り切れない部分も多いことも事実あるだろう。俺は今、仕事上の上司として。それと、プライベートな話を聞く立場として。そのどちらに解釈してもらっても構わない」
高橋さん……。
「ただ……」
そう言い掛けた高橋さんが、私を見た。
「もし仮に、遠藤の言っていたことが事実だとしても、俺はお前を怒ったりしない。だから、正直に話してごらん?」
高橋さんの声は優しく、そしてとても穏やかで、微塵にも憤り等は感じられない。
考えてみれば……こんな夜中に、私のために心配して来てくれた高橋さんに感謝しなければいけない。話を聞いてくれると言ってくれた高橋さんに、感謝しなければ……。
「蒔かぬ種は、生えぬ。そうだろう?」
「あの、私……」
もう限界だった。
俯いたまま、次の言葉を発する前に大粒の涙が溢れ出して、膝の上で握りしめていた手の甲にこぼれ落ちた。
止まらなくなった涙が、手の甲を濡らしていく。
すると、高橋さんの左手がスッと伸びてきて、私の頬を押さえると親指で涙を拭ってくれた。
遠藤主任にキスをされたことは、パソコンの画面表示のようにデリートキーを押しても保存が掛かっていて、その場で消しても再度電源を入れるとファイルにまだ残っているように、気持ちではリセットしようとしても、心の中に残ってしまっている。ファイルをゴミ箱に入れられる日が、私に訪れるのだろうか?
恐らく人が聞いたら、たかがキスぐらいで何故? そんな大袈裟に……と思うかもしれない。けれど、思い出すたびに震えが止まらない。もう、一生消せないのかな?
「焦らなくていい。纏まりのない言葉でも、構わないから」
高橋さんは、私に語りかけながら頬を伝う涙を拭ってくれると、俯いた時に少し乱れたサイドの髪の毛を掻き上げてくれた。
高橋さんの指の感触と体温を感じて少し落ち着いたのか、今なら言えそうな気がした。
「総務に書類を届けに行って、それで……戻る途中に……」
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