新そよ風に乗って 〜焦心〜
都合が良すぎるけれど、高橋さんのこの言葉をいちばん聞きたかったんだ。
「お前には、泥中の蓮で居て欲しい」
そう言うと、高橋さんは抱きしめながら、私の頭の上に左頬を押しつけた。
高橋さん?
「あの……」
「大丈夫だ。通らなければならない道もあるかもしれないが、後は俺に任せろ」
「はい」
高橋さんは、私の頭を撫でてくれると優しく微笑んだ。
通らなければならない道が何のことなのかは分からないが、高橋さんがそう言ってくれたのだからと思うと、少し安心出来た。
遠藤主任との一件以来、なるべく総務には行かないようにと、高橋さんと中原さんが配慮してくれたお陰で、遠藤主任に自ら会いに行くような形にはならずに済んでいた。
ただ、総務に行ったついでに会えることがあったまゆみに会えなくなったのは、少し残念だったけれど、それよりも配慮してくれた高橋さんと中原さんに感謝しないといけない。
結局、私の代わりに総務に行くのは高橋さんか中原さんなのだが、2人共忙しいだけに何だか申し訳なかった。
中原さんは、高橋さんから聞いているのかどうか分からないが、そのことに関して何も触れないでくれているので、内心ホッとしていた。
まゆみには、高橋さんには話した旨を水曜日の朝メールをしたが、案の定、その晩電話が掛かってきた。
「ハイブリッジなら、大丈夫だったでしょう? あの男は、そんなことじゃ、ぶれない男よ。まして、遠藤が強引にしたことであって、陽子は何も悪くないんだからさ。それより、遠藤を何とかしなきゃ。あの阿呆、何とかぐうの音も出ないようにしてやりたいんだわ。だから今、そのことで思案中なんだけどね。どうしたら、いちばん痛い目に遭わせられるかだよなぁ……」
そう言いながら、まゆみは電話口で指をポキポキと鳴らしていた。
今週は、月曜日に遠藤主任とのことがあったため、とても長く感じられ、やっと金曜日になった気分だった。遠藤主任とは、たとえ私が会いたくなくても、そこは同じ建物内にいるのだから、どうしても擦れ違ったり社食で遭遇してしまうこともあった。けれど、社食や人が多い場所でのことだったので、あの時のような悪夢の出来事は起こらずにいる。
遠藤主任の所属が総務なので、どうしても経理とは密接な関係にあるから、経理の事務所に来ることも多く、姿を見掛けると胸が苦しくなって、ビクビクしながらなるべく見ないようにしていた。
高橋さんが席に居なくても、中原さんが席に居てくれることが多いから、そうせいか、どうかは分からないが、遠藤主任も会計監査のデスクまでは来なかったので、取り敢えずは事なきを得ていた。けれど、いつも高橋さんや中原さんが事務所に居るわけでもなく、1人になってしまうこともあった。そういう時は、事務所の中には周りに沢山の人が居るのに、やっぱり心細くて必死に堪えていた。今、遠藤主任が此処に来てしまったらどうしようという不安ばかりが募り、そういう時は決まってコピーに行く時でさえ、事務所の通路を歩いていても、後ろから誰かの足音がすると、怖くて決まって振り返ってしまった。
< 115 / 247 >

この作品をシェア

pagetop