新そよ風に乗って 〜焦心〜
そんな今日も、高橋さんは朝から会議で殆ど席に居ることはなく、中原さんも税務署に立ち寄りで来るため、お昼頃になってしまうらしく、午前中は1人で頑張っていた。
中原さんの到着を今か、今かと待ちながら落ち着かない気持ちで高橋さんから頼まれた原稿をパソコンで打ち出ししていると、いきなり後ろから右肩を掴まれた。
「元気?」
その声と肩に触れられたことで、恐怖で頭が一杯になって、両肩を窄めたまま固まってしまった。
紛れもない。この声の主は……。
遠藤……主任。
右肩を掴んでいた遠藤主任が、そのまま肩に右手を回してきて、座っている私の左側に頭を寄せるようにして、前を向いたまま同じ視線の高さまで身体を屈めた。
咄嗟に顔を右側に背けて立ち上がろうとしたが、遠藤主任の右手に肩を押さえつけられているので立ち上がれない。
パソコンのキーボードの上に置いた両手が、小刻みに震えてるのが自分でも分かる。
経理の事務所の中には、数十人の社員が居るけれど、みんな仕事に追われているので端の方に位置している会計監査の私の席は、キャビネットが邪魔をして、こちらを向いている人にも死角になってよく見えない。
通路を挟んで後ろの席の人も背中をこちらに向けているので、用事がなければわざわざ振り返ることもないし、何か仕事の話をしていると勘違いされているのかもしれない。
誰かに気付いて欲しくても、なかなか気付いてはもらえない。
声を出そうとしても、先日の記憶が蘇ってきて怖くて声が出なかった。
「今夜、暇? 飲みに行かない?」
嘘。
絶対に嫌だ。遠藤主任と飲みに行くなんて。
「すみません。今日は、ちょっと……仕事が終わりそうにないので……」
やっと絞り出すようにして出た声は小さくて、周りの人にはとても聞こえるような大きさの声ではなかった。
「何で怯えてるの? 別に、何もしないよ。前々から誘ってるように、矢島と飲みたいだけだよ」
やめて欲しい。耳元で囁くように言われて、気持ち悪い。
「すみません。本当に、無理なんで……」
「そう、堅いこと言わないでさあ。ね? 帰り、待ってるから」
遠藤主任が肩に回していた右手に力を加え、引き寄せられそうになった。
嫌だ。やめて……。
「あの、ほ、本当に、今日は無理なんです」
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