温室の魔女は、今日も僕をアフタヌーンティーに誘う〜今宵、因縁の君と甘いワルツを〜
アフタヌーンティー
僕には好きな人がいる。
僕はいつも、放課後は彼女のいる秘密の温室でアフタヌーンティーをする。
そのために今、バスケットにスコーンを移しているところだ。彼女はジャムが好きだから、ジャムによく合うスコーンはきっと喜んでくれるだろう。
僕の部屋は高層タワー型寮の二十階にある。
僕の部屋にはあまりものがない。
ロフトの上にある就寝用の低めのベッドと、あとは壁掛けのテレビと実家から送られてきたスイーツを保管する大きな冷蔵庫があるだけ。
テーブルも椅子も、カレンダーもない。
『今日の天気は晴れでしたね! とっても清々しい一日になりました』
部屋の中では、テレビは基本的にいつも付けっぱなしにする。だから、僕の部屋には真夜中でもなにかしらの音が響いている。
僕は、音がない空間は苦手なのだ。
眺めのいい大きな窓は真っ赤なカーテンで締め切って、昼間は滅多に開けない。
夜になるとたまに開けたりもするけれど、基本はしない。高いところは得意ではないし、唐草区を見たいとも思わないから。
昨夜は疲れていて、カーテンを閉めるのをうっかり忘れて寝てしまったらしい。カウンターに立つまで気がつかないなんて、僕はどれだけ窓際に近づかないのだろう。
ゆっくりと光の方へ歩み寄ると、大きな窓からは都内がゆうに見渡せた。
そして、高層にある僕の部屋からは、大きな穴が見えた。地獄にでも繋がっていそうな、大きな、昏い穴だ。
高層タワーがひしめく狭い街並みの一角に、それは突如現れる。ビル街の中にぽっかりとある穴は、上から見るとかなり異様な光景だ。
僕は赤いカーテンを閉めて視界を閉ざすと、バスケット片手に部屋を出た。
秘密の温室へ向かうには、表側の温室を抜けていく。
時刻は金曜日の午後三時。だからだろうか。今日の温室はいつもより少し賑わっている。
僕は雫さんに早く会いたいあまり、前をよく見ていなかった。とんと小さな衝撃に立ち止まると、僕の真下には小さな女の子が尻もちをついている。
「あっ……ごめん! 大丈夫?」
僕は慌ててしゃがみこみ、バスケットを置いて女の子を抱き起こした。
女の子は小学校低学年くらいの背格好で、腰まである長い髪を三つ編みに編み込んでいる。服は少し薄汚れているが、可愛らしい顔をした子だった。
「大丈夫」
その子は、たった今まで泣いていたような赤い瞳で、じっと僕を見た。
さすがに今ので泣いたわけではないだろうと思うが、周りの視線が痛い。
「本当? どこも痛くない?」
「うん」
僕はお詫びの代わりにバスケットからスコーンをひとつ出し、女の子の手に置く。
「ごめんね。これ、良かったら食べて」
「くれるの? ありがとう、お兄ちゃん」
女の子は手の中のスコーンを見ると、嬉しそうにえくぼを作り、僕に手を振って温室を出ていった。
とりあえずホッとして、僕は再び温室へ向かう。
秘密の扉をくぐり、彼女だけの楽園へいくと、そこに雫さんはいた。
今日の雫さんは、いつも通りの白色と茶色のワンピースに身を包み、上からは赤いフード付きケープ。さらに髪を二つに結わえてまとめていた。今日の髪型はなんだか小動物の耳のようで可愛らしい。
「ムギちゃん! おやつの時間?」
「うん」
僕は控えめに笑う。
「やったー! 待ってたよ!」
どうしてだろう。彼女には聞きたいことがたくさんあるのに、彼女を前にすると、言葉が出てこない。
「今日はなにー?」
「……スコーンだよ。雫さん、ジャム好きだから。スコーンも好きかなと思って」
「スコーン大好きっ!」
彼女の弾ける笑顔に、僕の心は揺らぐ。
「……ムギちゃん、どうしたの? なにかあった?」
黙り込んだ僕を、雫さんが心配そうに覗き込んできた。瞬間的に香る彼女のシャンプーの香りに、僕はドキリと胸を鳴らす。
「……なにも、ないよ」
息遣いも聞こえるほどの密着した距離で、僕は雫さんに微笑んだ。雫さんはそれでも心配そうに、すっとその細い手を僕の胸に当てる。
「……なに?」
動揺を誤魔化すように、声を抑えて小さく訊ねると、
「……ううん、なんでも。ただ……生きてるなぁって」
雫さんは僕からパッと手を離し、いつものように笑った。
「なに? 急に……」
「えへへ。なんとなくだよ」
はにかんだ彼女は、一瞬だけ泣きそうに顔を歪めた……ような気がした。
「……なんとなく?」
「うん。それより早くお茶ー!」
「あぁ、はいはい」
僕は彼女が大好きだ。誰よりも、なによりも。
一目惚れだった。初めて会ったときから、彼女は僕と同じ匂いがした。
僕には大きな傷がある。誰にも言えない、治ることのない傷が。
そしてそれは、きっと彼女にも――。
「あっ……そういえば、さっき小さな女の子とぶつかっちゃって。大丈夫だったかな、あの子」
「女の子?」
僕はなにか話を逸らさなきゃと思って、咄嗟についさっきのできごとを雫さんに話す。
「まぁ前を見てなかった僕が悪いんだけどね」
「ふぅん。そうなんだぁ。あ、そういえば今日、外は晴れ?」
「うん? 晴れてたけど……あぁ、今日は全国高校野球の予選の日だったっけ?」
以前願い屋七つ星に依頼をしてきた女子高生を思い出す。
彼女は野球部のマネージャーで、今年で最後の三年生のために大会の日を晴れにしてほしいと頼んできたのだ。
「勝ち進んでるといいね」
雫さんはつぎはぎの薄暗い空を仰ぐ。僕もつられるように偽物の空を見上げた。
そして、ちらりと雫さんを盗み見ると、美しい横顔がそこにあった。
「……そうだね」
ほら、やっぱり雫さんは素敵な人だ。
依頼人一人ひとりのことをちゃんと覚えているし、その人たちの願いごとを叶えてあげてるんだから。
雫さんは彼女への対価として、『彼女の二番目に大切なものを貰う』と言った。
雫さんは一体、彼女からなにを貰ったのだろう――。
「……僕、今日は珈琲がいいな」
「おっ、珍しいね」
雫さんはパチンと指を鳴らす。その瞬間、ふわりと珈琲の香ばしい香りが辺りに漂った。
「ささっ、ムギちゃん」
雫さんが僕を呼ぶ。言われるまま僕は彼女の向かいに置かれた椅子に座り、カップを手に取る。
「雫さんは珈琲飲めるの?」
「飲めるよ。砂糖とミルクと、宝石を入れれば」
雫さんの可愛らしい返答に、僕は思わず笑みを零した。
「お子ちゃまだなぁ」
「むっ、なんだとー」
つんと口を尖らせる仕草が可愛らしい。
「今日、理事長は?」
「今日のこの時間は会議じゃないかな? でも、多分そろそろ終わる頃だからこっちに来ると思うけど」と、雫さんは時計を見て言った。
「そうなんだ」
「それよりムギちゃん、今週末空いてる?」
「ん? もしかして、依頼?」
基本的にともだちがいない僕に、予定などない。それに、彼女との時間を差し置いて出かけるほどの用事などあるわけもない。
「うん。その日、三日月がまた都合悪いらしくて。でも今回の依頼人は男の人だから、なんていうかムギちゃんがいてくれたら気が楽だなぁと思って」
男と会うだと?
「行く。絶対行く」
僕は即時返事を返したのだった。