温室の魔女は、今日も僕をアフタヌーンティーに誘う〜今宵、因縁の君と甘いワルツを〜
事件
その直後注文したものが届くと、雫さんは弾んだ声を上げ、目の前に置かれたパフェを食べ出した。
「南塚さんは甘いものはお嫌いですか?」
雫さんの問いに、南塚さんは口を付けていたティーカップを、音を立てないようにそっとソーサーへ置くと、
「……そういうわけではないんですが、ただ慣れていないんです。紅茶もあまり飲んだことがないし」
曖昧に笑った南塚さんに、雫さんは小さく瞬き、「……そうですか」と言うと、それ以上はなにも言わなかった。
別れ際、雫さんはいつにも増してあっさりしていた。
「では、対価の請求は後ほど」
「はい。ありがとうございました」
南塚さんは一礼し、しっかりと茶封筒を脇に抱えて帰っていった。
「今回は呆気なかったね」
「そ? 普段はこんなもんだよ」
「そうなんだ」
お祖母さんの所在は簡単に分かってしまったし、紅茶を飲みきることなくさっさと帰っていく南塚さんの後ろ姿に、今回の依頼はまるで私立探偵のようだったなぁなどと思った。
「……帰ろうか、雫さん」
「そうだね」
美鶴山からの帰り道、山の上から街を見下ろすと、景色の中に昏い穴が視界に入る。
穴からふいと目を逸らした僕を、雫さんは静かに見つめていた。
――数週間後。時刻は午後七時三十分。
僕は寮の部屋でテレビを付けたまま風呂を済ませ、ろくにドライヤーも使わずにタオルを首にかけると、ロフトの階段に座り込んだ。
適当に付けておいたテレビが映し出しているのは、興味もない情報番組。
特に見たいものもないのでぼんやりとそれを見ていると、突然聞き覚えのある名前が聞こえてきた。
『本日未明、都内に住む草間有美さん六十歳とみられる女性が、路上で血を流して倒れているところを発見されました。病院に搬送されましたが、まもなく死亡したとのことです。草間さんには胸や腹などに複数箇所の刺傷があり、警察は殺人事件として捜査を進めています』
「えっ……?」
――草間有美。依頼人である南塚さんが探してほしいと頼んできた女性だ。
「この人って……」
たしか、雫さんと依頼人に会いに行ったのは八日前のことだった。
ついこの間、南塚さんの探していた草間有美が亡くなった?
しかも殺人で、犯人は捕まっていない……。
背筋を冷たい汗が流れていく。
僕は髪も乾かさずに、急いで温室へ向かった。
時刻は、午後八時。
花籠学園の温室は、一般人には二十四時間入室を許されているが、学生が入れるのは寮の門限までと決められている。
そのため僕は昼間しかこの温室に足を踏み入れたことがない。
夜の温室は、昼間とは違って青色と白色の光でライトアップされていて、どこか異質な空気感があった。
鮮やかな赤や黄色の花たちも、蝶も鳥も眠ったようにしんとしている。
眠りについている温室の生き物たちを起こさないように、僕は慎重に歩を進めながら秘密の温室へ繋がる扉の前に立った。
いつも通りに奥の温室へ抜けようと、扉をくぐる。
――ずでん。
しかし、いつもなら僕の入室だけは許してくれるその小さな扉は、今回ばかりは何度くぐっても僕を元いた場所に戻すだけだった。
……やはり。
思った通りだ。雫さんは、夜になると絶対に会ってくれないのだ。
――コンコンコン。
扉をノックをして、声をかけてみる。
「雫さん、僕だよ。お願い、通して。話があるんだ」
しかし、いくら待っても返事はない。僕はそれでも訴える。
「緊急なんだ。お願いだよ、雫さん!」
直後、背後の風がゆらりと揺れて、芳しい花の香りがした。振り向くと、そこには理事長が立っていた。
「おや、紬さん。こんな時間にどうなさいました? 門限はとっくに過ぎているはずですが」
しかし、僕を見る彼の表情に驚いた様子はない。
「……あの、理事長。実は急ぎで雫さんに話があって。ここ、開けてもらえませんか?」
控えめに言ってみたが、やはり理事長は僕の予想通りの言葉を口にした。
「申し訳ありませんが、雫様はもうお休みになられましたので。今日はお帰りください」
理事長は表情こそ困ったようにしていたものの、有無を言わせない口調でそれだけ告げ、闇の中に消えていく。
結局、僕は雫さんに会うことを諦めて、とぼとぼと寮に戻った。
だが、既に悲劇はここから始まっていたのだ。
タワーに踏み込むや否や、耳を劈くような警報音が鳴った。
「わあっ!? なに!?」
門限を破って抜け出したことがバレて、僕はその後二時間にも及ぶ寮監からの説教を受けたのだった。
寮監はずり落ちかけた眼鏡を上げる仕草をしながら、「もしかして女子寮タワーに忍び込もうとしたんじゃないでしょうねぇ」だとか、「お酒でも呑んできたとかじゃないでしょうねぇ」だとか、「まさか万引き!?」などと、どこまでもあらぬ疑いをかけてくる。
「そんなことしてませんよ。僕はただ、夜の温室に行ってみたくて……」
「あぁん? 門限破っておいて口答えたァ、いい度胸だね」
「本当に、すみませんでした」
「本当に反省してる?」
寮監はなおも疑いの眼差し。
しかし、なんとか平謝りを続けて誠意を示した結果、今回はお咎めなしということに落ち着いた。
はぁ。なんて無駄な時間だったのだろう……。
僕は凝った肩を回しながら、エレベーターのボタンを押す。
「こら! 君は今日から一週間、エレベーター使用禁止だよ!」
「えっ!? だって僕の部屋、二十階ですよ!?」
「罰だよ、バ・ツ。それくらい我慢しな!」
寮監はそう吐き捨てると、さっさと部屋に戻って行った。
「そんなぁ……」
思わず嘆く。
僕は「チーン」と軽やかな音を立てて開いたエレベーターの扉を横目に、隣のお飾りだと思っていた階段へ向かうのだった。