温室の魔女は、今日も僕をアフタヌーンティーに誘う〜今宵、因縁の君と甘いワルツを〜
――翌日の午後三時。
授業が終わると、僕は寮タワーには帰らずに、そのまま雫さんの元へ向かった。
「雫さん!」
「あっ、ムギちゃん。昨日来てくれたんだってね。ごめんねー、会えなくて」
早足で雫さんに会いに行くと、彼女はいつも通りの柔らかい笑顔で僕を迎えた。
その笑顔に、大して罪悪感は感じられない。
「いや、それはいいんだけど。それより、雫さん。大変なんだよ。この間の依頼人のお祖母さん」
「ん?」
雫さんはきょとんとしている。この分だと、ニュースの件は知らないようだ。
「殺されたんだよ、草間有美さん。昨日ニュースになってて、ビックリして……」
「あぁ、それで来てくれたんだ」
雫さんはそこまで驚いた様子はない。
「うん」と頷く。
「ま、そんなことより、アフタヌーンティーにしようよ!」
雫さんは呑気に指を鳴らし、いつものティータイムの準備を始めている。
そんなことって……。
僕は唖然とした。
「ちょっ、それどころじゃないでしょ!?」
「でも、死んじゃったんじゃ今さらどうにもならないし」
雫さんは平然と紅茶を啜っている。
肝が座っているのか、そもそも他人に興味がないのか。
「殺されちゃったんだよ!? 草間さん! 犯人はまだ捕まってないみたいだけど、多分犯人は……」
僕はそれ以上なにも言えず、口を噤む。
「南塚さんかな?」
やはり彼女は呑気な声で言った。
分かってるのに、どうしてそんなに平気な顔していられるの?
彼女は、自分が南塚さんの依頼を叶えたせいで草間さんが死んだかもしれないとは思わないのだろうか。
「……罪悪感とか……ないの?」
「どうして? 私はただ彼の願いを叶えただけだよ?」
「だって今回のって僕たちが……南塚さんに居場所を教えちゃったから、起こった事件かもしれないのに」
罪悪感どころか、きょとんとした様子の雫さんに、僕の指先はどんどん冷たくなっていく。
「願い屋はね、他言無用なの。たとえ依頼内容が違法なもので犯罪だとしても、対価をもらえば私たちはなにも知らなかったことになる」
「……それは、依頼人の共犯者ってことだよね?」
冷や汗が背中を伝っていく。
「願い屋に来る人はね、命をかけてるんだよ。それくらい追いつめられてる人たちなの。だからどんなに理不尽な対価を突き付けたとしても、願いさえ叶えてあげれば私の存在が公になることはないし、ここに警察が来ることもない。安心して」
雫さんはなんでもないことのようにそう言った。
「いや、僕は……」
そういうことを言ってるんじゃない。けれど、雫さんはパッと声色を変えて、
「ねね! それより、今日のおやつは?」
雫さんは瞳を輝かせて、テーブルに両手を乗せ、僕にグイッと顔を寄せた。その瞳には、それ以上の追求を許さないという彼女の意志が覗いていた。
「ムギちゃん!」
不意に彼女の香りが強くなり、ドキリと胸がときめく。
こんなときに、僕ってやつは……。
状況を弁えずにときめいている自分に呆れながらも、僕は手ぶらでここへ来たことを後悔する。
「……ごめん、今日はないんだ。急いでたから」
その瞬間、彼女はガラス玉のような藍色の瞳をうるませ、唇をきゅっと結んだ。
「えー……」
ずきん、と胸が痛む。
こんな無神経な態度を見ても、彼女が悲しそうにすると反応してしまう自分の心が情けない。
「……あ、明日持ってくるよ」
「……本当?」
「うん。今日実家からミルフィーユが届くはずだから」
慌ててそう付け足すと、彼女は嬉しそうに「約束ね! 明日、絶対だからね!」と僕に顔を近付けた。
「……ねぇ。南塚さん、今どこにいるかわからないの? もし彼がお祖母さんを殺したんだとしたら……」
少しだけ機嫌が良くなった様子の雫さんに、僕は飽きもせず訊ねる。
「さぁ?」
「さぁって……雫さん」
僕は必死に訴えるけれど、
「だーかーら! 他言無用だって言ったでしょ? その話はもうやめようよ。彼らには彼らの意思があって、結果そうなったってだけだよ。私たちが首を突っ込むことじゃないし、どうしようもできない」
雫さんは興味なさそうにピシャリと言った。
そして、彼女は鼻歌を歌いながら肩に乗っているこまるの小さな頭を撫でている。
僕はマイペースな彼女に、思わずため息を零すのだった。
雫さんの睫毛が揺れる。その瞳が僕を見ることはない。どうやら、彼女のへそはまた背中に回ってしまったらしい。
「……今日はなにしてたの?」
僕は仕方なく、彼女の機嫌を治したくて話を変えた。
すると、彼女はすぐに笑顔になって「今日は絵を描いてたよ」と、スケッチブックを僕に差し出した。
「絵?」
意外だ。雫さんは絵も嗜むのか。
しかし。
そこには、上下すらよく分からない謎の絵が描かれている。
僕の好きな人は、絵は得意ではないらしい。
「さすが雫さん……絵まで個性的だね。それでこれは、なに?」
「え? こまるだよっ! 見ればわかるでしょ!」
プンスカ怒りながら、雫さんが言った。
「こまるかぁ……」
どこをどう見ればいいんだ?
生き物というより、歪んだ空間の絵にしか見えない。でも、なぜか癖になる絵だ。
「……ん?」
すると、次のページに驚くほど美しく描かれた絵があった。
しかも、描かれた人物の顔には見覚えがある。
「これってもしかして」
南塚さん?
でも、雫さんのタッチではない。
これは、誰が描いたのだろう……?
さらにページを捲ると、そこには以前願い屋七つ星を利用した結衣さんや紗月さんの絵もあった。
それから、可愛らしい女の子の絵も。
「おや? この子、どこかで……」
最後の絵に見覚えがあるような気がしたが、思い出せない。
ちらりと雫さんを見ると、上機嫌で紅茶を飲んでいる。
彼女に聞いたところで、僕の望む答えが返ってくることはないだろう。
「……はい。ありがとう」
僕は南塚さんたちの絵には気づかなかったフリをして、スケッチブックを彼女に返した。
「これ、色はつけないの?」
色があれば、こまるの絵は辛うじてモデルがこまるだと分かるような気がする。辛うじて、だが。
「うーん、色かぁ」
彼女は考え込んだ。
「それもいいかも。あとで付けてみようかな」と、嬉しそうにスケッチブックを眺めて言った。
その後も雫さんは、今日ようやく咲いた珍しい花の話や、魔法薬の実験に失敗した話などを楽しそうに話してくれた。
けれどその日、彼女が魔法で出してくれた紅茶の味は、僕にはよく分からなかった。
そしてその日の夜、僕はいつも通りに風呂に入って、ベッドに潜り込むようにして眠った。
なるべく今回の殺人事件のことは考えないように、テレビのスイッチは付けずに。
音のない部屋で寝るのは久しぶりだった。
無音の世界の中で、僕は震える。
今宵は新月。なにもないことを祈り、僕はギュッと目を瞑った。